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-DOMAINE YUMEMI-
夢 見 屋
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INTERNATIONAL vol.24
INTERNATIONAL (44) 1996年11月1日 インターナショナル堂楽園ホテルの鉄板焼の手狭な厨房から、「えっ!!!」という大きな声が聞こえてきた。 ワインセラーの前に立っていた坂井琢郎は厨房の方を向いて、「なんかあったのか?」と嫌な空気を感じた。 今はランチタイムが終了して、片付けとディナーの準備を行っている最中で、先ほど統括部長の武田勇に呼び出されて鉄板焼きを離れていた窪田誠司が戻ってきて、川崎紀夫と篠崎啓二、加藤光輝に何やら伝えたようだ。 そのリアクションが「「えっ!!!」である。 坂井はその内容が気になり、耳をすませた。 「ーー黄色ブドウ球菌って、最悪や!!!」 川崎が両腕を組んで言う。 「どっから出たんすか?」 篠崎が窪田に訊ねる。 「まな板から検出されたって、保健所の検査報告書に書いてあった」 窪田が報告書の内容を伝える。 「えっ、まじっすか!?」 篠崎は半信半疑の表情を浮かべて、 「例の集団食中毒事件のあと、衛生管理を徹底しとったでしょ」と首を傾げる。 「でも、出たんやろ・・・」 川崎も不思議そうな

夢見操一
2 日前読了時間: 4分


INTERNATIONAL vol.23
INTERNATIONAL (42) 1996年10月24日 坂井琢郎は梅田2丁目の西阪神ビルを背に大阪中央郵便局を見ていた。 快晴で気温が25度を超える暖かさだが、北東から吹いてくる風が心地よく感じる。 坂井はアルシオ・インターナショナルの開業準備室から出てきたばかりだった。 坂井は、採用試験の第2ステップ、面接試験を終えて、気持ちが軽くなっていた。 以前、面接試験を受けた神戸のホテルと泉佐野のホテル、そして、今回の面接試験は、3社とも同じような内容で、特に緊迫した空気は感じられず、経歴と希望職種に関する話やホテル業界の現状と市場の動向など、第1ステップとは真逆と思える内容だった。 面接試験の担当者は千葉(チバ)と名乗った。体格は坂井の倍以上、ホテルマンとは思えない豪腕格闘技さながらの風格を持っているが、朗らかで温もりを感じさせる雰囲気の男性だった。 坂井はぼんやりと考えていた。 ーーあの第1ステップの電話でのやりとりで、何を審査していたのだろう? 10月下旬なのに夏日、だが北よりの風が心地よくて、物思いにふけるには丁度いい

夢見操一
12月21日読了時間: 8分


INTERNATIONAL vol.22
INTERNATIONAL (41) 1996年10月23日 アルシオ・インターナショナルの採用試験の第1ステップをクリアした坂井琢郎は、第2ステップの面接試験のことで頭が一杯になっていた。 気持ちはすべてアルシオ・インターナショナル!!! と言っても過言ではない。 だが、このことは誰にも話していない。 もし、口を滑らせて、インターナショナル堂楽園ホテルの誰かに話してしまったら、 ほぼ確実に坂井の計画は潰されるだろう!!! 坂井はとにかく逸る気持ちを押さえて、日々の業務を遂行していた。 去る1996年9月27日に衆議院が解散された後、衆議院議員総選挙に向けた各党の動きがメディアで報道されていた。 坂井も以前とは違い、衆議院議員総選挙に意識を向けるようになっていた。 その切っ掛けは、辻井元高の影響だった。 まだこのホテルの裏の顔と正体を知らなかった坂井は、このホテルのVIPゲストの辻井が参議院議員で、しかも現職の通商産業政務次官でもあり、さらに辻井の話題が国政に関わることが多かったことに感化されて、政治や選挙を意識するようにな

夢見操一
12月21日読了時間: 7分


INTERNATIONAL vol.21
INTERNATIONAL (37) 1996年9月26日 住友博史は事務室で菅沼尚人厚生大臣の記者会見を観ていた。 今日、厚生省が発表した堺市学童集団食中毒事件の最終報告に関する記者会見である。 住友は、「一旦、カイワレでカタをつけるってことか・・・」とつぶやいた。 住友は今でも、カイワレは利用されただけで、この真相は羽曳野と朝河グループを狙ったテロ事件だ、と思っている。 住友が作成した調査報告書は菅沼に委ねていたが、その後、住友の調査報告書に関して音沙汰がなく、今、堺市学童集団食中毒事件の真相は、厚生省の最終報告によって、闇に葬られようとしている。 住友は「堺市学童集団食中毒事件に関してよけいなことをするな」と宮岸善正から釘を刺されていて、動きを封じられている状態だった。 住友は、住友自身が作成した調査報告書のことを宮岸に伝えていない。 だが、宮岸から釘を刺された。 そもそも宮岸から住友へ与えられたミッションは、菅沼の動きを監視して、菅沼が自爆するように仕向けることだった。 あろうことか、8月の堺市学童集団食中毒事件の中

夢見操一
12月21日読了時間: 7分


INTERNATIONAL vol.20
INTERNATIONAL (34) 1996年9月3日 月が変わり、坂井琢郎はアルシオ・インターナショナルからのリアクションを待っている状況で、気持ちが落ち着かない日々を送っていた。 鉄板焼きでは、Aカウンターの厨房側の端の席に、一人の男性が座っていた。 坂井がインターナショナル堂楽園ホテルに入社してから、その男性を見たのは初めてだった。 「今日はな、神戸のある物件が手に入ったんや。所有者のババアが頑固でな、時間がかかってもうたのは誤算やったけど、今日、決着がついて、ほんまによかったわ」 その男性が大袈裟に話す。 「そうですか。これでまた青木さんの株があがるんとちゃいます?」と、篠崎が言う。 「ええこというてくれるやん」 青木が嬉しそうな顔をして、 「オレはお宅の社長はんを尊敬しとるんや」と断言した。 ーーああ、そうか。社長についてる地上げ屋ってことか・・・ 坂井は武田勇の話を思い浮かべて、 ーーまあ、どうせ悪戯な事して取り上げた物件だろ! と思った。 坂井は、この青木という地上げ屋のことは篠崎に任せておこう、と思い、他

夢見操一
12月20日読了時間: 9分


INTERNATIONAL vol.19
INTERNATIONAL (32) 1996年8月23日 坂井琢郎が目を覚ました。 頭の中がぼーっとして、記憶も朧気で、昨夜のことが思い出せない。 「ん・・・」 坂井は身体を起こして、ベッドではなくソファーで寝ていたことに気がついた。 昨夜は、帰ってきて、とりあえずソファーに腰を下ろして、 「・・・」 そのまま寝落ちしたようだ。 坂井は時計を見た。 「げっ、もう昼じゃん」 坂井はまずシャワーを浴びて、頭をすっきりさせようと思い、バスルームへ向かう。 身体がフワフワして、力が入ってこない。 坂井は無気力状態だった。 厚手の遮光カーテンを開けて、レースだけにすると、リビングはとても明るい。 坂井はシャワーを浴びて、トランクスだけの姿でソファーに座り、バスタオルで上半身を拭いていた。 リビングの中央にガラスのローテーブルがあり、ローテーブルを挟んでソファーとテレビ台、そして、カラーテレビはブラウン管方式の21型だった。 リビングにあるのはこれだけだった。 リビングとダイニングを仕切る引き戸は全開にしていて、繋がった状態に

夢見操一
12月19日読了時間: 6分


INTERNATIONAL vol.18
INTERNATIONAL (31) 1996年8月22日 高級ラウンジ『ルージュ・セリーズ』では、武田勇と徳永学、坂井琢郎が話している。 坂井は、インターナショナル堂楽園ホテルと国会議員の辻井元高の関係を知り、茫然としているが、胸の内では考えごとをしていた。 ーー普通、こんなとんでもないホテルの名誉顧問なるかな? いや、カネのためだったら何でもやるってことか・・・それとも、他の誰かの差し金ってこともあるよるよな。 坂井にはどうも腑に落ちない話だった。 「坂井、なんやぼーっとして・・・」武田勇が声をかけた。 「いえ、あの、辻井先生は個人的に名誉顧問をされてるんですよね」 坂井は辻井の立ち位置を確認してみた。 「個人なわけないやろ」武田は否定し、「窓口は自優守護党の聖和会や」と告げた。 坂井は自優守護党は知っているが、聖和会がなんなのかわからなかった。 1979年1月24日。自優守護党の保志田武夫と保志田のブレーンたちによって、聖和会が結成された。 その結成の祝いとして、政治献金が、在日カレノフ総連と在日コレシュド民主団から提供さ

夢見操一
12月18日読了時間: 6分


INTERNATIONAL vol.17
INTERNATIONAL (30) 1996年8月22日 インターナショナル堂楽園ホテルの真南、約500メートルの場所にある高級ラウンジ『ルージュ・セリーズ』では、武田勇と徳永学、坂井琢郎がボックス席に座って何やら話している。 先ほどまでボックス席で同席していた4人のホステスは待機室に戻り、ホールの端に立っているママの刈谷麗華が3人の様子を覗っていた。 坂井は、ホテルの資金の大本がカレデュノフ共和国だと聞かされ、唖然としていた。 「坂井、これで驚いてどうするんや。話はこれからや」 武田は坂井にはっぱをかけた。 「すみません。予想外だったんで、つい」 坂井は気を取り直した。 「まずな、ウチの社長と常務のことを知っとかなあかん」 武田が話し始めた。 「確かにそうですね」 坂井は社長と常務のことをよく知らなかった。 「ウチの社長は、カレデュノフ共和国の国家主席ジムギルソンの側近で、カレノフ労働党の対日戦略部隊の幹部、さらに、在日カレノフ総連の幹部で、その組織のナンバー2なんや」 武田が社長の素性を話す。 「・・・」坂井は、いきな凄い

夢見操一
12月18日読了時間: 7分


INTERNATIONAL vol.16
INTERNATIONAL (29) 1996年8月22日 坂井琢郎がインターナショナル堂楽園ホテルに入社してから3ヶ月が経っていた。 堺市で発生したO157による集団食中毒に関する騒動はまだ落ち着いていないが、このホテルも坂井が担当する鉄板焼きも、以前と変わりのない営業が続いていた。 今日は統括部長の武田勇から「仕事が終わったら飲みに行こう」と誘われている。 坂井がこのホテルに入社してからの3ヶ月、武田から誘われたことは1度もなかった。 入社して3ヶ月は試用期間で、これで正式に社員として迎えられたということだろう。 坂井はそう思っていた。 坂井が入社してから、鉄板焼きの売上は右肩上がりで、特に飲料売上の伸び率は、他の飲食店舗とは比べものにならないほど高く、営業会議で高い評価を得るほど順調に運んでいた。 鉄板焼きの片付けが終わり、坂井は私服に着替えてロッカールームを出た。 従業員用の通用口を出で通路を上ったところで、武田と宿泊部のマネージャーの徳永学(トクナガマナブ)が待っていた。 徳永は坂井と同じぐらいの身長だが、体型は武

夢見操一
12月18日読了時間: 7分


INTERNATIONAL vol.15
INTERNATIONAL (26) 1996年8月9日夜 インターナショナル堂楽園ホテルの鉄板焼きでは、辻井元高が米沢牛のサーロインを堪能していた。 連日のように報道される続けている堺市学童集団食中毒事件は、先日(8月7日)の記者会見で、厚生大臣の菅沼尚人の発言が波紋を呼び、さらに騒がしくなっていた。 全国のスーパーなどからカイワレが姿を消し、カイワレ農園関連の団体が厚生大臣に対して抗議の声をあげたのだ。 鉄板焼きは、牛肉をメインに取り扱う飲食店舗であり、主として牛がO157を保有していることから、何らかの影響を受けるものと注視していたが、この鉄板焼きは、以前と変わらず、今日も開店直後からAカウンターもBカウンターもほぼ満席状態になっていた。 辻井は毎度のように忙しい時間帯を避けて鉄板焼きを訪れている。 お約束通り、日本料理の女将の沢口多恵子が辻井に絡んで押し問答を繰り広げ、互いの気が済むと、沢口はさっと引き上げていった。 今日は、窪田誠司が休みで、辻井の対応をしているのは、篠崎啓二である。 篠崎は7月下旬に問題を起こしたが、

夢見操一
12月17日読了時間: 9分


INTERNATIONAL vol.14
INTERNATIONAL (25) 1996年8月7日 厚生政務次官の住友博史は、O157による堺市学童集団食中毒に関する独自調査と検証を行ってきた。 住友が政務次官という立場上、厚生省のO157食中毒研究チームによる調査と検証の進捗状況などを把握できるため、口外しないが参考にしていた。 だが、どうもしっくりこないことだらけで、何か別のファクターが隠されているように感じられて、それが何なのか考え続けていた。 そして、ある1つの仮説が浮かびあがてきたのである。 今、住友はその仮説を厚生大臣の菅沼尚人に伝えるためにレポートを作成している最中だった。 ーーこれらは単なる食中毒ではなかった・・・ 厚生政務次官 住友博史の仮説「O157集団食中毒多発テロ事件」 背景:羽を曳くが如く(権力で構築された特異体質の町) *なぜ羽曳野のカイワレなのか? 堺市学童集団食中毒を事件として捉えると、この事件の首謀者の狙いが朧気に見えてくる。 首謀者の真の狙いは堺市ではなく羽曳野で間違いないだろう。 厚生省の調査で、羽曳野の農園で栽培され出荷されたカ

夢見操一
12月16日読了時間: 9分


INTERNATIONAL vol.13
INTERNATIONAL (22) 1996年7月25日。 堺市の学童集団食中毒発生から10日余りが過ぎても、集団食中毒の余波が居座り続けていて、快晴であるにも関わらず、重苦しい空気が漂っていた。 インターナショナル堂楽園ホテルの鉄板焼きでは、ランチタイムの準備が整い、開店時刻を待っている状態だった。 今週の月曜日(22日)からホテル観光専門学校の学生の現場研修が始まり、このホテルでも数人の学生を受け入れていた。 その学生の1人、筒井素子(ツツイモトコ)1年生が鉄板焼きで研修することになり、主として坂井琢朗が筒井の担当を受け持つことになった。 だが、鉄板焼きは焼き手がメインであもり、接客しながら客の目の前で調理をするという業務については、篠崎啓二に説明してもらうことにした。 篠崎に依頼した理由は、シェフの窪田誠司は真面目を絵に描いたような性格で、専門学校に入学してまだ4ヶ月にも満たない女子学生にはちょっと固すぎる。 また、スーシェフの川崎紀夫に依頼した場合、鉄板焼きではなくパリ・タイユヴァンの武勇伝を熱く語る可能性がかなり高いと

夢見操一
12月15日読了時間: 8分


INTERNATIONAL vol.12
INTERNATIONAL (20) 1996年7月11日、近畿地方の梅雨明けが発表された。 この年の大阪は、6月7日に梅雨入りした後、しばらく雨の日が続き、6月中旬に梅雨の中休みで夏日となり、その後、梅雨空が戻り、月末までに3日ほど大雨の日があったが、それ以外は、湿度が高くて気温も高い日が続き、日中の最高気温が30℃を超える日もあった。 7月に入ると雨の日は少なく、梅雨明け間近と感じられるようになり、とにかく蒸し暑い日が続いていて、梅雨最後の雨の日に、一時的に気温が下がったが、その後、気温が上昇し、昨日(10日)は真夏日になっていた。 この梅雨の期間、梅雨入り前の5月下旬からO157による集団食中毒が全国各地で、立て続けに発生し、厚生省は食中毒防止対策を促し、メディアもこの異例とも言える食中毒の連鎖に注目し、O157による集団食中毒について大きく取り上げていた。 インターナショナル堂楽園ホテルでも、飲食店舗と宴会場に関わるスタッフたちに食中毒防止対策の徹底を指示して、特に調理に携わるスタッフにはかなり厳しく喚起を呼びかけていた。...

夢見操一
12月15日読了時間: 8分


INTERNATIONAL vol.11
INTERNATIONAL (16) 1996年6月19日 正午すぎ 鉄板焼きのAカウンターで連泊中の夫妻が鱧料理を堪能している。 窪田誠司が夫妻の様子を覗いながら、米沢牛を焼き始めていた。 この鱧料理とは、今が旬の鱧の落としと焼き霜造りの盛り合わせで、日本料理のカウンターを任されている寿司職人の佐藤正がつくった料理である。 ランチタイムだが、この夫妻は今月のおすすめコースをオーダーした。 前菜、鱧料理、米沢牛のサーロイン、焼き野菜、ガーリックライス、デザート、珈琲という内容である。 鉄板焼きと日本料理の関係は微妙で、去る6月6日、女将の沢口多恵子が坂井琢朗を洗い場に入れて皿洗いをさせたことに激怒したように、客の前では見せないが、鉄板焼きの焼き手は、日本料理と関わりを持たないスタンスを保ているようだ。 だが、派遣の寿司職人とは仲が良すぎるほど、毎月、寿司職人とのコラボメニューをつくって積極的に提供している。 プライベートのつきあいは他所にして、業務においては、焼き手は日本料理の板前と水と油の関係で、サービススタッフに関しても、鉄

夢見操一
12月14日読了時間: 9分


INTERNATIONAL vol.10
INTERNATIONAL (15) 1996年6月6日夜。 坂井琢朗は日本料理の洗い場で皿洗いをしていた。 今日は、主任の大谷正彦が公休のため、坂井が日本料理のフォローに入った。 状況を見ながら、鉄板焼きと日本料理を行き来することになる。 そんな日に問題が発生した。洗い場のパートの女性が急病のため欠勤したのだ。 今日は、座敷が全室予約で埋まっていて、サービススタッフを洗い場に配置することができない状況だった。 そこで、坂井に白羽の矢が立てられたのだ。 ーー洗い場か・・・何年ぶりだろう? 坂井が大阪のホテルのアルバイトを始めたのは1986年の6月で、洗い場に配置された。 皿洗いという下積みから立派なホテルマンに昇りつめようなんて思ってもいなかった。 その当時は、言われたことをやるだけで精一杯だったことを思い出す。 レストランと宴会場をたらい回しにされて、洗っても洗っても追いつかないほど、忙しい毎日だった。日本の経済が、バブル景気へ向かってまっしぐらという状況だったことを思えば、あの頃の忙しさは当然だったのだろうと納得できる

夢見操一
12月14日読了時間: 12分


INTERNATIONAL vol.9
INTERNATIONAL (13) 1996年5月31日夜(つづき) 滝澤がバーへ戻った後、坂井は辻井元高と窪田誠司のやりとりを覗っていた。 先生と呼ばれる辻井が何者なのか、未だに不明で、坂井は早く知りたい気持ちに駆られていた。 そこへ、日本料理の女将、沢口多恵子が入って来て、 「先生、ウチに内緒でしれっと肉食べとるとは、お人が悪いでんな」と声をかけた。 「おっと、見つかってしもたか・・・」辻井は顔をしかめて、 「今夜こそ、落ち着いて極上の肉を味わおう思てたのに、ぶち壊しや!!!」と断罪した。 「なにをいうてまんねん。首をなご~してウチが来るんを待ってたくせに」 沢口は怯むことなく「正直にいうたらどうや、ウチに逢いたかったって!!!」と反撃した。 「そんなアホなこと、口が裂けてもいわんわい!!!」辻井も応戦した。 辻井はグレーのスーツ姿でノーネクタイ、恰幅が良くて、ふっくらした顔立ち、髪はオールバック、やや目と眉が垂れ気味で、一見、愛嬌が良い紳士のようである。 沢口はワインレッドの着物と薄いピンクの袋帯、どちらも垂れざくらが奥ゆか

夢見操一
12月12日読了時間: 8分


INTERNATIONAL vol.8
INTERNATIONAL (11) 1996年5月31日午後。 ランチタイムが終了し、鉄板焼きは静まり返っていた。 窪田誠司と篠崎啓二は休憩に出ていて、加藤光輝が厨房で食材の仕込みをしている。 ランチの片づけを終えた坂井琢朗は、ホテルの3階にある営業企画部へ新しいワインリストを受け取りに行った。 インターナショナル堂楽園ホテルの3階は、宴会場とメイン厨房、宴会サービス課でほぼ占められている。 そんな3階の片隅に営業企画部がある。 窓が多くて明るい部屋に入ると、ホテルの総合パンフレット、期間限定プランの案内、ブライダル、パーティー、講演会、ミーティングなどの宴会場関係の案内、レストランの案内などが一式並んでいる。 坂井はその前を通り過ぎて、稲田有里子(イナダユリコ)のデスクへ近づいた。 「坂井さん、なんとか間に合いましたね」 稲田がホッとした表情で言う。 稲田は34歳、1984年に開業したこのホテルの一期生で、営業企画部に配属されてからずっと営業企画部で勤務しているという。 「ありがとうございます。急なお願いで、すみませんでし

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12月11日読了時間: 8分


INTERNATIONAL vol.7
INTERNATIONAL (10) 1996年5月31日。 下野投利(シモツケトウリ)銀行の大阪支店の特別膣に案内された竹井剛三は、赤茶色のレザーカバーに包まれたソファーに腰を沈めた。 余計な装飾をしていないシンプルな部屋は、とても『特別室』とは言い難い殺風景な空間を描いていた。 竹井は株式会社日本都市開発クリエイトの社長で、インターナショナル堂楽園ホテルを経営している。 取引をしているメインバンクは下野投利銀行で、頭取の深江寿夫(フカエヒサオ)とは、深江が大阪支店長だった頃から親しい間柄である。 「竹井社長、お待たせしたしました」 支店長の榊原邦憲(サカキバラクニノリ)が竹井に挨拶して、同じようにソファーに腰を沈めた。 「支店長。なんや急に、ここの雰囲気が変わってしもうたね」 竹井がローテーブルに両肘をつけて両手を組み、前のめりで榊原を凝視して、 「例の件でお宅も大変そうやな」と口火を切った。 榊原は怯むことなく、「いえ、今まで通り、頭取がなんとかするでしょ」と、竹井の心配を払拭する。 例の件とは、下野投利銀行が創業して以来

夢見操一
12月10日読了時間: 10分


INTERNATIONAL vol.6
INTERNATIONAL (9) 1996年5月31日。 坂井琢朗は地下鉄御堂筋線の心斎橋駅からインターナショナル堂楽園ホテルへ向かっていた。 去る5月13日、坂井は恩師の武田勇にホテルの見学という名目で誘き出され、有無も言わせない強引なやり方で、インターナショナル堂楽園ホテルに再就職することになった。 再就職の目処が立っていない坂井の弱みに巧くつけこんだ計略にハマってしまった。 坂井はそう思っているが、武田が本心を明かすことはないだろう。 だが、今日ここに至っては、坂井が武田を憎むという気持ちは消えていた。 あれから1週間後の5月20日、坂井は正式に入社した。 坂井は「すぐにでも来て欲しい」と話す人事担当の加藤夏子の依頼に応えたのだ。 慢性的な人材不足。 これが1994年にリニューアルオープンしたこのホテルが抱えている問題だった。 社長の竹井剛三(タケイゴウゾウ)と常務取締役の谷崎丈二(タニザキジョウジ)は、長く親しい関係にあった笹山良介の秘書を通じて、ホテル業界から引退している元総支配人と知り合った。その元総支配人は、

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12月9日読了時間: 8分
INTERNATIONAL vol.5
INTERNATIONAL (8) 1996年5月13日。天候は晴れ、南よりの風に雲が流されていて、時折、陽射しが途切れることもあるが、過ごしやすい天候だった。 坂井琢朗は地下鉄御堂筋線の心斎橋駅から地上に上がり、心斎橋筋北商店街に入った。 濃紺のスーツと白のワイシャツ、ブルーのネクタイ、黒の革靴という姿で、髪は六四に分けてバックに軽く流す感じで、襟足を軽く刈り上げている。 坂井がホテルで勤務する時のヘアスタイルである。 坂井が南船場に来るのはこれが初めてだった。 これからインターナショナル堂楽園ホテルで恩師の武田勇と会う約束をしている。 手にぶら下げている黒のハンドバッグの中に履歴書を5セット入れている。 武田に履歴書を預けて、あわよくば、どこか大阪のホテルを紹介してもらえたらラッキーかなと、ささやかな期待を抱いて持ってきたのである。 坂井はインターナショナル堂楽園ホテルで働こうなんてことは微塵も考えていない。 あの1991年4月の武田の浮気疑惑で、武田に嘘の証言をさせられて、奥様を傷つけてしまっただけでなく、奥様に助けても

夢見操一
12月9日読了時間: 9分
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