INTERNATIONAL vol.7
- 夢見操一

- 12月10日
- 読了時間: 10分
更新日:12月11日
INTERNATIONAL
(10)
1996年5月31日。
下野投利(シモツケトウリ)銀行の大阪支店の特別膣に案内された竹井剛三は、赤茶色のレザーカバーに包まれたソファーに腰を沈めた。
余計な装飾をしていないシンプルな部屋は、とても『特別室』とは言い難い殺風景な空間を描いていた。
竹井は株式会社日本都市開発クリエイトの社長で、インターナショナル堂楽園ホテルを経営している。
取引をしているメインバンクは下野投利銀行で、頭取の深江寿夫(フカエヒサオ)とは、深江が大阪支店長だった頃から親しい間柄である。
「竹井社長、お待たせしたしました」
支店長の榊原邦憲(サカキバラクニノリ)が竹井に挨拶して、同じようにソファーに腰を沈めた。
「支店長。なんや急に、ここの雰囲気が変わってしもうたね」
竹井がローテーブルに両肘をつけて両手を組み、前のめりで榊原を凝視して、
「例の件でお宅も大変そうやな」と口火を切った。
榊原は怯むことなく、「いえ、今まで通り、頭取がなんとかするでしょ」と、竹井の心配を払拭する。
例の件とは、下野投利銀行が創業して以来、初めての赤字決済を出したことである。
「株主総会が迫っとるけど、ほんまに大丈夫なんか?」と竹井は表情を曇らせる。
「現時点では、深江頭取の続投が濃厚だとの声が多いようです」
榊原は頭取の深江を擁護する立場であり、深江の進退に関して軽々しく発言できない。
竹井にとって深江とは切っても切れない関係にあり、現時点での深江の退陣を阻止したい考えで動いていた。
その理由は『コルレス契約』だった。
1970年8月27日、オープンコルレス制度が発足した。
終戦後の日本では、外国為替取引に関して厳しい規制が敷かれていて、さらに固定為替相場制度も導入されて、自由な為替取引が制限されていた。
だが、オープンコルレス制度の発足によって、外国為替取引の規制が緩和され、さらに日本の金融市場が国際的な金融市場と連携できる環境が構築されることになる。
当時の内閣総理大臣は岸川伸介の実弟、佐藤耕筰(サトウコウサク)で、大蔵大臣は、岸川伸介の後継者、保志田武夫だった。
1965年に発足した佐藤耕筰内閣でオープンコルレス制度の導入が議論され、導入するメリットとデメリットが交錯する中で、反対派を押し切る形でオープンコルレス制度の導入に踏み切った。
これにより都市銀と地銀が挙って「コルレス銀行」の認可を得ようと動き始めた。
当然の如く、下野投利銀行も手を挙げた。
その当時、下野投利銀行の頭取は、日本中央銀行出身の藤岡正憲(フジオカマサノリ)だった。
1958年9月、下野投利銀行の代表取締役に就任した藤岡は、1972年5月に頭取職を後任の関芳朗(セキヨシロウ)に引き継ぐまで、当銀行のトップに君臨していた。
藤岡は、頭取在任期間、一貫して慎重派を貫いていた。
そんな藤岡体制の下野投利銀行にスーパースターが現れた。
その名は、深江寿夫。1947年に下野投利銀行に入社してから18年で常務取締役に昇進するという快挙を成し遂げた人物である。
深江は、終戦後の激しく移り変わる時代の波に乗って、リスクを顧みない投資という積極策を押し進めて、成果をあげ続けてきたのだ。
藤岡はオープンコルレス制度に慎重な態度を示したが、深江は最大のチャンスと捉えて、「コルレス銀行」の認可取得に向けて環境整備計画を作成し役員会に提出した。
この段階で、深江の計画案に反対する役員はおらず、深江の思惑通りに事が進んだ。
1972年、日本中央銀行出身の関芳朗が頭取に就任した時、深江は、副頭取に日本産業銀行出身の岡嶋一馬(オカジマカズマ)を推しあげて、深江自身を専務取締役に昇格させた。
日本産業銀行はすでに合併して他の銀行に変わっているが、かつては、産業界の長期的な資金の提供だけでなく、証券信託の機能を持ち、外資の導入や債券の引受も行う特殊銀行だった。
深江は特殊銀行のことを熟知している岡嶋を取り込み、外国為替取引に関する整備も進めていった。
そして、1973年10月1日、下野投利銀行は海外コルレス業務を開始したのだった。
1974年5月10日、岡嶋が頭取に就任し、同年7月1日、深江が副頭取に就任した。
その後、コルレス契約した外国銀行は増えて行き、1977年には25行に到達していた。
深江は「コルレス銀行」の認可だけに留まらず、「コルレス契約包括許可」を求めて、大蔵省に足を運んでいた。
通常のコルレス契約では個別の取引ごとに許可が必要となり、いろいろ手間がかかる。
だが、コルレス契約包括許可を取得すれば、個別の許可手続きが不要となり、許可申請に必要な費用と時間が削減され、外国為替業務が効率よく行えるようになる。
コルレス契約包括許可を取得するには内閣総理大臣による認可が必要だった。
1977年当時の内閣総理大臣は、自優守護党の保志田武夫だった。
1959年、深江は下野投利銀行東京支店の支店長に就任した。
地方銀行ながら都市銀に迫る勢いで拡大を続ける下野投利銀行が東京進出を果たしたことから、銀行業界だけでなく、大蔵省の中でも注目されていた。
深江は東京支店長時代に、大蔵省の官僚や日本中央銀行の役員、政界と黒社会の化け物と接する機会があった。その中に、岸川信介、佐藤康介、保志田武夫がいたのだ。
そもそも1970年のオープンコルレス制度発足時の大蔵大臣が保志田であり、深江は東京支店長時代に培った人脈を利用して「コルレス銀行」の認可を得たのだ。
それ相応の土産が必要だったが、海外コルレス業務を開始できれば、簡単に回収できる程度のレベルであり、深江にとってはリスクでも何でもなかったのだ。
この取引に関わった人物がいた。それは、その当時、保志田の秘書を務めていた大泉純三だった。
深江が保志田宅を訪ねると、必ず大泉が出迎えてくれた。腰が低くて、愛想もいい。好感度抜群の秘書だった。
だが、それは表向きで、大泉は融通の利かない頑固者である。この先、自身の野望に向かって突き進むのだろうと、深江の直感が喜んでいた。
化け者が化け者を生み出し、その化け者がまた新たな化け者を生み出す。
これが政界の実態。深江はこれを巧く利用することを考えていたのだ。
深江は、大蔵省の官僚とも通じているが、コルレス契約包括許可となるとハードルが高くなり、場合によっては認可されない可能性もある。
そこで、円滑に、かつ、確実に認可を得るために、大泉に一役買ってもらおうと考えた。
深江は、大泉が1972年12月の衆議院議員総選挙で初当選したことを知り、大泉に極秘に祝いの品を贈っていた。
現在の保志田内閣で、保志田一派の宗秀生(ソウヒデオ)が大蔵大臣だった。
深江は宗と面識がなかったため、大泉に仲介を依頼し、さらに大蔵省内でこの申請に協力してくれる優者に渡りをつけてもらった。
大泉が深江に紹介したのは新居昇明だった。
当時、新居は厚生省に出向中で、保志田内閣で厚生大臣の渡貫通春と深く関わりを持っていて、これが切っ掛けで、新居は後に政界へ進出することとなる。
この新居という影の協力者を得た深江の目論みは、予測以上に円滑に進んでいった。
翌年1978年2月23日、保志田内閣総理大臣が、下野投利銀行のコルレス契約包括許可の申請を承認し、晴れて下野投利銀行はコルレス契約包括許可を取得した。
深江はこれだけで満足する男ではない。
同年6月22日、下野投利銀行の頭取に就任した深江は、以前から温めていた計画に着手した。
これは、1973年に下野投利銀行が海外コルレス業務を開始した時期のことである。
東京の赤坂の料亭で、深江は2人の男性と会食をした。
2人はカレノフ総連の幹部で、委員長のギョレイデン(日本名:青井龍輝)と副委員長のイルギオン(竹井剛三)である。
図体のデカい委員長と細身で小柄な副委員長は、どちらも黒縁メガネを掛けていた。
深江はこの2人と親しい関係にあり、特に副委員長とは、深江が大阪支店長時代からの長い付き合いである。2人の事業もこの組織もメインバンクは下野投利銀行で、深江にとっても重要なお得意様と位置づけていた。
「専務、この度は海外コルレス業務開始、誠に喜ばしいことですな」委員長が言う。
「まず、無事にスタートできて安心したよ」深江が口元に笑みを浮かべて、
「まあ一杯どうぞ」ビール瓶を持ち、委員長に差し出し、委員長のグラスに注ぐ。
「これから大儲け。腹ん中はホクホクでっしゃろ」副委員長がニヤリと視線を送る。
「当たり前やん。金融業界は儲けてなんぼや」深江は副委員長に付き合い、
「さあ一杯」ビール瓶を差し出し、副委員長のグラスに注いだ。
深江のグラスにはすでにビールが注がれていて、3人は祝杯をあげた。
「さて、本題に」委員長が姿勢を正すと、
「そう急かさずに。今宵は旨い肴を満喫しながら、ゆっくり話しましょうや」
深江はそう促すと、パンパンと両手で合図を送る。
「失礼いたします」襖が開き、仲居が頭を下げる。
「料理をよろしく」深江は仲居に会食スタートの合図を送った。
赤坂の料亭の懐石料理、その秋本番の彩りと味わいに、3人の目も舌も踊らされて、すっかりご機嫌さん状態で話も弾み、仲居に聞かれたらまずいこともペラペラと座敷に響き渡っている。
だが、今3人が話している内容は「コルレス制度」で、たとえ仲居に聞かれても、彼女たちに理解できるものではないのだ。
本題は、下野投利銀行とカレデュノフ共和国の国営貿易銀行とのコルレス契約の締結に関わる内容で、日本と国交の無い国の銀行とコルレス契約を締結することに大きなリスクを感じて、これに手を出す銀行は皆無と言えるだろう。
だが、この契約締結によって、莫大なカネを動かせるのだから、これを指をくわえて見てるだけ、そんなこと深江にできるはずがない。
野心の塊、カネと儲けの猛者、下野投利銀行のスーパースター。深江は、やがてこのパンドラの箱を開けることになる。
深江はカレデュノフ共和国の国営貿易銀行とのコルレス契約締結に向けて動き始めた。
カレノフ総連の委員長から連絡を受けている国営貿易銀行側は、すでに契約締結の準備を整えていて、下野投利銀行を待っている状態だった。
国交が無い国の銀行とコルレス契約を締結することに大蔵省が立ちはだかった。
これは当然のことだろう。
深江は再び新居の協力を得ようとしたが、1978年7月から仙台国税局に出向中のため、協力を得られない状況となり、保志田内閣総理大臣に直談判を決行しようとしたが、同年12月、保志田が退任に追い込まれて、深江の目論みも頓挫状態に陥った。
だが、1979年を迎えた1月24日、保志田が聖和会を結成し、自優守護党に新たな風が吹き始めた。
保志田内閣に変わって発足した大下正好(オオシタマサヨシ)内閣では、高下昇が大蔵大臣に任命され、大泉純三が大蔵政務次官に任命されたのだ。
深江は聖和会結成を祝って多額の政治献金を行い、聖和会の属する大泉に大蔵省の切り崩しを依頼した。大蔵大臣の高下はカネで操り、大泉の動きを黙認させた。
高下は自身に害が及ばなければ、簡単にカネに靡く政治家だった。
大蔵大臣が黙認し、大泉が大蔵省の切り崩しに奮闘する中、同年7月に、新居昇明が出向先から大蔵省に戻ってきて、銀行局総務課長補佐に就任した。
これは大蔵省にとって諸刃の剣に他ならない。
大蔵省銀行局は、日本全国の銀行を牛耳っていて、銀行局がOKであればなんでもOK、銀行局がNOであればすべてNOなのだ。深江の前に立ちはだかっていたのは銀行局だった。
だが、大泉と新居、そして、深江の関係は、すでに親密なものであり、自優守護党の化け物と大蔵省の化け物が手を組めば、最強の銀行局も折れるしかなかったのだ。
かくして、1979年12月、下野投利銀行とカレデュノフ共和国の国営貿易銀行との間で、コルレス契約が締結され、パンドラの箱が開いたのである。

この物語はフィクションです


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