top of page

INTERNATIONAL vol.8

  • 執筆者の写真: 夢見操一
    夢見操一
  • 12月11日
  • 読了時間: 8分

INTERNATIONAL


(11)


 1996年5月31日午後。

 ランチタイムが終了し、鉄板焼きは静まり返っていた。

 窪田誠司と篠崎啓二は休憩に出ていて、加藤光輝が厨房で食材の仕込みをしている。

 ランチの片づけを終えた坂井琢朗は、ホテルの3階にある営業企画部へ新しいワインリストを受け取りに行った。

 インターナショナル堂楽園ホテルの3階は、宴会場とメイン厨房、宴会サービス課でほぼ占められている。

 そんな3階の片隅に営業企画部がある。

 窓が多くて明るい部屋に入ると、ホテルの総合パンフレット、期間限定プランの案内、ブライダル、パーティー、講演会、ミーティングなどの宴会場関係の案内、レストランの案内などが一式並んでいる。

 坂井はその前を通り過ぎて、稲田有里子(イナダユリコ)のデスクへ近づいた。

「坂井さん、なんとか間に合いましたね」

 稲田がホッとした表情で言う。

 稲田は34歳、1984年に開業したこのホテルの一期生で、営業企画部に配属されてからずっと営業企画部で勤務しているという。

「ありがとうございます。急なお願いで、すみませんでした」坂井はお礼を伝えた。

「いえいえ、これが仕事ですから」

 稲田はお約束通りの受け答えでスルーし、

「それより、このホテルどう思う? やっていけそう?」と訊ねた。

 ーーえっ、この質問って必要なの? 坂井は違和感を感じながらも、

「すごくいいホテルですよね。西洋の高級ホテルに負けず劣らずって感じがして」

 このホテルの第一印象を口にした。

 稲田は含み笑いをして、「大丈夫そうね」と言った。

 だが、これは、このホテルの実態を知らない坂井への憐みに過ぎなかった。


 坂井は新しいワインリストを受け取り営業企画部を出た。

 通路の先に従業員用エレベーターのドアが見える。

 坂井はワインリストを見ながら、左側の宴会場へ通じる通路の分岐点を通過した。

 そのタイミングでエレベーターンのドアが開いて、社長の竹井剛三が出てきた。

 坂井は立ち止まり、近づいて来る竹井に「おはようございます」と頭を下げた。

 これは、ホテルでよくある光景で、時刻など関係なく、今日初めて会う従業員への挨拶として定着していた。

「ご苦労さん」竹井は坂井を見ることもなく通り過ぎた。

 坂井はそのままエレベーターに乗って振り返った。

 竹井は営業企画部ではなく、宴会場の方へ曲がった。

「おはようございます」男性の声が聞こえてきた。

 その通路に男性の従業員がいて、坂井と同じように竹井に挨拶したようだ。

 その直後、「君は、北かね? 南かね?」竹井の声が聞こえてきた。

 坂井は最上階のボタンを押してから、この質問に疑問を感じた。

 竹井は坂井に何も訊かなかったが、その男性(誰かわからない)には意味不明の質問を投げかけたのだ。

 坂井は、その男性が何と答えるのか、気になった。

 だが、その男性が答える前に、エレベーターのドアが閉まった。

 エレベーターが上昇し始めた。

 坂井は、「もし、社長が自分に同じ質問をしていたら・・・」と考えて、「答えようがない」と首を振った。

 さらに「東ってボケたら笑ってくれたのだろうか?」と冗談を思い浮かべて、坂井は、竹井にまだ3回しか会ってないが、竹井が従業員に笑って声を掛けるようなタイプとはとても思えなかった。


 エレベーターを降りた坂井は、鉄板焼きのワインセラーの前に立ち、保存されているワインを覗き込むようにして、1本1本確認し始めた。

 今まで使用していたワインをグラスワインでとして供して在庫を減らしながら、新たに仕入れたワインを販売して、飲料単価と飲料売上をアップさせる。

 坂井はこの責務を全うしようと心に誓い、ワインとワインリストを照合しながら、各々のワインが持つ奥深さと多様性をイメージしていく。

 坂井はシャンボール・ミュジニー村で訪れたドメーヌを思い浮かべながら、コート・ドールの天才と呼ばれるクリストフ氏が、自信を持って坂井にすすめた赤ワインを確認した。

「これが手に入って良かった」

 坂井は新しいワインリストに満足していた。

「君は、北かね? 南かね?」

 つい先ほど、偶然聞いてしまった意味不明の質問は、ワインを前にして、その存在が薄れてゆき、やがて坂井の心の奥で眠ることとなった。



(12)


 1996年5月31日夜。

 鉄板焼きのAカウンターの中央辺りの席に辻井元高が座っていた。

 いつものように窪田誠司が米沢牛のA5ランクのサーロインを焼き始めていた。

 辻井が来店する前、鉄板焼きには5組の客が米沢牛を堪能していた。

 5組とも二人連れで、2組は同伴利用、3組は夫婦だった。

 Aカウンターで3組、窪田が担当し、Bカウンターで2組、篠崎啓二が担当した。

 ゆったりした雰囲気でデイナーが進み、20時前には5組の客はすべて退店した。

 ABのカウンターをリセットして間もなく、バーの薦田健二が辻井を鉄板焼きに誘導して来て、Aカウンターの中央辺りの席に案内した。

 窪田がすぐに厨房から出てきて、辻井に挨拶した。

 篠崎と加藤光輝も厨房から出てきて、辻井に挨拶した。

 辻井が鉄板焼きに入って来た時、坂井は通常通り「おかえりなさいませ」と挨拶した。

 辻井は坂井を見て、左手を挙げて、そのまま案内された席に座った。

 坂井は、辻井が放つオーラの強さに怯んで、足が止まった。

 バーのマネージャが案内して来て、鉄板焼きの焼き手3人が挙って挨拶に出てきたこの光景を見て、坂井は「この人、何者?」と鉄板焼きの空気が一変したことに戸惑っていた。

 そこへ、バーテンダーの滝澤和人がバランタイン30年のボトルを持って鉄板焼きに入って来て、「先生、いつもありがとうございます」と挨拶した。

「おう、滝澤君。それはこっちのセリフや。今日もよろしく頼むで」

 辻井は滝澤に感謝を伝えるような表情を見せた。

「はい。ごゆっくりお過ごし下さいませ」

 滝澤は辻井に頭を下げて、坂井に近寄って、

「先生はこれしか飲まんから」と告げて、坂井にバランタイン30年を渡した。

 滝澤は、辻井の素性には触れることなく、バランタイン30年の飲み方を坂井に伝えた。

 辻井はバランタイン30年しか飲まない。

 飲み方はロックスタイルで、かち割り氷をオールドファッショングラスに一杯に入れる。

 丸氷や角氷などのサイズが大きな氷を苦手にしているからだ。

 バレンタイン30年の量は、氷が一杯入った状態で、グラスの半分程度注ぐ。

 ステアして冷やすことはしない。

 辻井はゆっくりとバレンタイン30年を味わう。

 決してがぶ飲みするようなことはしない。

 完全に飲み切るまで手を出してはならない。

 おかわりをつくる時は、毎回、新しい氷と入れ替える。

 これが「辻井ルール」である。

 坂井は滝澤から引き継いだ「辻井ルール」に従いバランタイン30年を取り扱った。


 滝澤は、坂井と同じ年齢だった。

 大阪のホテルでアルバイトをしていた時、バーテンダーとして勤務していた滝澤と出会い、一緒に飲み行くようになった。

 滝澤は正社員で、坂井はアルバイト、職場においては、滝澤が先輩だったが、当時、バー部門で滝澤と同じ年齢の従業員はおらず、ほとんどが上司と先輩で、1つ下の後輩が1人、2つ下の後輩が1人いるだけだった。

 そこへアルバイトの坂井が入ってきて、滝澤と同じ年齢だと知って喜んでいた。

 滝澤の方から坂井を誘うようになり、いつの間にか思ったことを言い合える仲になっていた。

 その後、静岡のホテルへの移籍の話があり、滝澤は当時付き合っていた彼女を連れて静岡のホテルに移籍することになった。その彼女とはすでに結納を交わしていた。

 坂井も武田勇に誘われて静岡のホテルに移り、滝澤と一緒に勤務することになった。

 静岡のホテルでは、滝澤がメインバーに、坂井がメンバーズクラブに配属された。

どちらも課長に昇進した武田の管轄部署だった。

 滝澤の婚約者、河口若菜は、メンバーズクラブのフロントで勤務している。

 静岡のホテルが開業した後、秋を迎えてホテルが落ち着き始めたタイミングで、滝澤は河口と結婚した。

 このホテルで行われた結婚披露宴には、大阪のホテルから大勢の来賓が参列し、お祭り騒ぎの如く盛大に執り行われた。

 この後から坂井は滝澤夫妻と親交を深めていった。


 月日が流れ、1991年4月、坂井が武田の浮気疑惑に巻き込まれてから2週間が経った頃、坂井は滝澤からある相談を持ちかけられた。

 その内容は、ある女性とトラブルになり、コトを収めるにはカネが必要になったという。

 坂井は心の中で「女性とトラブルって、滝澤、おまえもか!!!」と叫んだ。

 滝澤は、「妻にはバレたくないし、妻が家計を握っているから、密かにカネを持ち出す持こともできないし・・・」と深刻な表情で言う。

 坂井は、あの武田の浮気疑惑に巻き込まれて本当に嫌な思いをさせられたため、さすがにこの件には関わりたくないなと思った。

 滝澤は他に頼れる者がいないようで、「坂井、頼む、助けてくれ」と頭を下げた。

 坂井の給料は少ない。入社1年目は、手取りで8万円ほどで、2年目、3年目と少しずつ増えたが、手取りは10万円にも届いていなかった。

 坂井は社宅生活で、給料から寮費が引かれていて、水光熱費は会社負担だったため、少ない手取りでもなんとか生活できていた。 

 それほど多くないが、夏と冬に支給されるボーナスを残すように心がけていた。

 ただ、ワインの勉強のために必要な資料にかかる費用やワイン勉強会などに参加する費用は、ボーナスを充てていたため、ボーナスの全額を残してはない。

 坂井は、滝澤に必要な金額を訊いてみた。

 数十万円か・・・

 坂井は予想していた金額より少なかったことから、滝澤に協力することにした。

 坂井は、大阪のホテル時代から、滝澤に本当によくしてもらっていた。

 今回、坂井は、そのお礼を兼ねて、全額を立て替えたのだった。

 その後、坂井は神戸のホテルに移籍することが決まり、1992年3月で静岡のホテルを退職したが、滝澤は、坂井が退職する前に立て替えたカネを全額返してくれた。

 滝澤の女性トラルブの件は、二人だけの秘密として、坂井は心の奥に封印して、一切他言していない。また、この件で、滝澤に対し、恩着せがましい態度でふるまうことも一切していない。結果として、滝澤を助けることができて良かったと思った。


 その後、月日が流れて、今、坂井は、滝澤と同じホテルで働いている。

 これも何かのご縁なのだろうか。坂井は滝澤と再会して、何か違うように感じていた。


ree

この物語はフィクションです


コメント


Copyrigth © 2013 YUMEMI-ya All Rights Reserved.

bottom of page