INTERNATIONAL vol.5
- 夢見操一

- 12月9日
- 読了時間: 9分
INTERNATIONAL
(8)
1996年5月13日。天候は晴れ、南よりの風に雲が流されていて、時折、陽射しが途切れることもあるが、過ごしやすい天候だった。
坂井琢朗は地下鉄御堂筋線の心斎橋駅から地上に上がり、心斎橋筋北商店街に入った。
濃紺のスーツと白のワイシャツ、ブルーのネクタイ、黒の革靴という姿で、髪は六四に分けてバックに軽く流す感じで、襟足を軽く刈り上げている。
坂井がホテルで勤務する時のヘアスタイルである。
坂井が南船場に来るのはこれが初めてだった。
これからインターナショナル堂楽園ホテルで恩師の武田勇と会う約束をしている。
手にぶら下げている黒のハンドバッグの中に履歴書を5セット入れている。
武田に履歴書を預けて、あわよくば、どこか大阪のホテルを紹介してもらえたらラッキーかなと、ささやかな期待を抱いて持ってきたのである。
坂井はインターナショナル堂楽園ホテルで働こうなんてことは微塵も考えていない。
あの1991年4月の武田の浮気疑惑で、武田に嘘の証言をさせられて、奥様を傷つけてしまっただけでなく、奥様に助けてもらった坂井は、もう2度と武田の下では働きたくないと思っていた。
あの後、坂井は密かに転職先を探し始めていた。
希望は大阪、大坂以外なら神戸か京都のホテルがいいなと考えていた。
静岡のホテル時代にワインショップ主催のワインセミナーに参加したのが切っ掛けで、他のホテルの従業員たちや個人経営のワインバーの店主たちと知り合うことができた。
転職先を探していることを話してみると、意外と坂井に協力してくれる人が多かった。
1992年の春に神戸で開業予定のホテルがあり、そのホテルの役員と知り合いだという年配の男性が現れ、坂井を紹介してくれた。これがご縁で、話がトントン拍子に進み、1992年4月1日に神戸のホテルに移籍することが決定したのだった。
1992年4月1日、坂井は神戸のホテルで初めて出会ったメンバーたちと共に新たなスタートを切った。
開業準備から始まりグランドオープンを迎え、開業した後もドタバタして落ちつかない日々が続いたが、坂井は、静岡のホテルの開業の時も同じような状況だったことを思い出して、気持ちに余裕を持ちながら日々の業務に励んでいた。
坂井は、よほどのことがない限り、静岡のホテルにいる武田や他の大阪メンバーたちと関わることはないだろうと思っていた。
だが、腐れ縁とはよく言ったもので、1993年の春、神戸で新たに開業するホテルにあの大阪メンバーたちがこぞって移籍して来たのである。
お約束通りに武田から坂井に連絡がきた。「ウチのホテルを見学してみないか」と。
武田は料飲部の部長に格上げで移籍したいう。
坂井は武田の誘いを断れず、そのホテルを訪れた。
「おまえとは、これからはライバルとして、しのぎを削る関係になるけどな、定期的に情報交換しながら互いに高め合おうや。まあ、こんな関係もええやろ」
武田がホテルの見学に訪れた坂井にそう告げた。
--できれば、関わりたくないんだけど・・・
坂井はそう思っているが、断れない現実が坂井自身を苦しめることになった。
その後、この2つのホテルの明暗を分ける事態が発生した。
それは、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災だった。
海岸から離れた高台にある武田たちが勤務するホテルは、大震災による被害が少なく、翌日には通常通り営業を再開していた。
一方、坂井が勤務するホテルは人工島にあり、ホテルそのものが受けた被害に加えて、液状化現象によってホテルが傾き、営業再開の目処が立たない状況に陥った。
これにより、従業員に退職勧告が出され、坂井は職を失った。
1994年9月4日、関西国際空港が開港したことで、泉佐野の開発が活性化された。
阪神淡路大震災の影響で職を失った坂井は、岸和田に移住して泉佐野に新たに開業したホテルに再就職した。
その後の経緯はすでに記した通りである。
泉佐野は神戸から随分と離れていて、「ちょっと神戸に行ってくる」という気軽さはイメージできない。
坂井は、これで武田とあの大阪メンバーたちとの距離ができて良かった、と思っていた。
だが、今年(1996年)1月に武田が大阪のインターナショナル堂楽園ホテルに移籍した。
総支配人として引き抜かれたという。だが、武田は総支配人を辞退し、統括部長として赴任した。神戸のホテルからはバーテンダーの滝澤和人だけを呼び寄せたという。
坂井は武田からこの連絡を受けて、「この巡り合わせってどうなんだろう?」と、腐れ縁を切る難しさを実感させられた。
そして、今、坂井はインターナショナル堂楽園ホテルヘ向かっていた。
心斎橋筋北商店街から右へ逸れて東へ進む。長堀通りの1本北の通りである。
商店街のアーケードは姿を消し、通りの左右に様々なビルが建ち並んでいた。
ランチタイムが終わろうとしている時間帯、職場に戻るサラリーマンやOLが多い。
繁華街というより、オフィス街というイメージを強く感じた。
ちょうどいい具合に陽が射してきて、その心地良さに気分が和んでいだ。
鼻歌交じりでインターナショナル堂楽園ホテルへ向かう坂井の足取りは軽かった。
「ホップ、ステップ、ジャンプ」なぜか、そんな気分になっていた。
南船場の真ん中辺りに差し掛かった時、通りの右側にバロック様式をアレンジしたような外観のホテルが姿を現した。
「あっ、ここか」と、坂井はホテルを見上げた。
高層タワーでもなく、マンモスホテルでもない。こぢんまりとしたホテルだった。
エントランスは二重自動ドアで、当時は両開きではなく片開きだった。
坂井はエントランスを抜けてロビーに入った。
クリスタルガラス製の豪華なシャンデリアが目に飛び込んできた。
ーーこのインパクトは凄い!!! 坂井は素直にそう感じた。
「坂井、よう来てくれた」
シャンデリアの真下に武田が立っていた。
坂井は、シャンデリアに意識が向いて武田に気づいていなかった。
華奢な体型の坂井とは真逆のガッチリした猛者のようは体型の武田でも、このシャンデリアの下では影が薄れてしまうようだ。
「あっ、ご無沙汰しております」
坂井は武田に気づいて、すぐに近寄った。
阪神淡路大震災後、坂井は武田と1度も会っていなかった。
「このシャンデリア、凄いですね」
坂井は真上のシャンデリアを見上げた。
「そやろ。バカラやからな」
武田もシャンデリアを見上げて、
「カジノのバカラとちゃうぞ。ほんまもんや」と冗談を言う。
「・・・」坂井は言葉を失い、
--これ必要なん? ギャンブル大好き、酒も大好き、オンナは超絶大好き!!! あれから何も変わってないんだな、と坂井は嫌な予感を感じた。
坂井と武田は、直ぐ傍に設置されているソファーに座った。
「--ところで・・・」
武田は冗談をスルーした坂井を見て、
「この先、どうするつもりなんや?」と訊ねた。
「もちろんホテルに再就職して頑張りますよ。他の職種には興味ありませんから」
坂井は素直に気持ちを伝えた。
「そうか、そうやろなと思っとったわ」
武田は口元に笑みを浮かべて、
「履歴書持ってきたか?」と坂井に確認した。
「はい」坂井はハンドバッグから履歴書と写真を入れた封筒を3セット取り出した。
あえて2セットを残すことにして武田に渡した。
「これ1つだけでええよ」
武田は封筒を1つだけ受け取り、履歴書を取り出した。
武田は履歴書を確認しながら、「ふ~ん」と両腕を組んで坂井の目を見て、
「これ、わざわざワープロで作ったんやな」と感心した様子である。
「いちおう、大阪希望でお願いできますか?」
坂井は武田に希望を伝えた。
「それは大丈夫や。知り合いにホテルの求人情報をあたってみるけど」
武田は履歴書を封筒に戻して、
「ちょっとついて来てくれか」
と坂井を促して、立ち上がった。
「あ、はい」坂井が立ち上がった時には、武田は歩き出していた。
フロントカウンターの左側、少し離れた場所にプライベートと記されたドアがある。
武田は真っ直ぐにそのドアまで進み、ドアノブに手をかけた。
「どこへ行くんですか?」
坂井の中で疑問が浮かび始めていた。
「ついて来たらわかる」
武田はドアを開けてホテルのバックヤードに入り、坂井も武田の後について入った。
飾り気の無い通路にシェルフが並んでいて、宿泊部関連の備品や器具、書類保管用の箱が収納されていた。
この通路の奥まで進み、左折してさらに奥まで進むと総務部と記されたドアがあった。
坂井は嫌な予感を感じて、「今日はホテルの見学ですよね」と武田に確認する。
「見学は後でもできるやろ」
武田は軽く受け流してドアを開けた。
昼休憩から戻ったばかりで、まだ落ち着いていない雰囲気の中、武田に気づいた加藤夏子(カトウナツコ)が近づいてきた。
「加藤君、これを頼む」
武田は坂井の履歴書を加藤に手渡して、
「こいつは、元部下の坂井君や」と坂井を紹介した。
「総務部人事担当の加藤です」
加藤が坂井に自己紹介した。
「はじめまして、坂井です」
坂井はこの展開に戸惑った。
「急ですまんけど、上には話を通しとるから、入社手続きよろしく」
武田はそう伝えて、
「坂井、あとは加藤君に任せるから、分からんことがあったら、何でも聞いてや」
と坂井を加藤に丸投げにして、「ほな、頼んます」と坂井の肩をポンと叩いて、総務部を出て行った。
「えっ・・・」
坂井はポカンと口を開けたまま、狐に化かされた気分に包まれた。
ーーもしかして、ホテルの見学っていうのは、坂井をここに誘き出す口実で、目的はこれだったってこと・・・
「坂井さん、どうぞこちらへ」
加藤が坂井を促し、坂井は首を傾げながらついて行く。
「あの~、面接とか何もやってないんですけど」
坂井が戸惑い表情を浮かべた。
「ああ、ここって、部長がOKなら、何でもOKなんですよ」
加藤が平然と言った。
「何でもOKなんですか・・・」
坂井は目を丸くした。
「社長は大阪と東京を行ったり来たりで、常務もホテルと自分の会社を行ったり来たりしていて、会社役員2人とも忙しいので、日々の運営全般は部長に任せっきりなの。だから、部長に全部任せておけばいいのよ」
加藤が坂井にそう伝えて、
「どうぞ座って、待っててください。書類を用意しますので」と促した。
「はい」坂井は椅子に座って、書類を取りに行く加藤の後ろ姿を目で追いながら、
ーーこれは完全にハメられた!!! と気づいて、インターナショナル堂楽園ホテルがどんなホテルのか、ホテルのオーナー会社がどんな企業なのか、それよりも坂井の労働条件はどうなってるのか、と、まだ何も知らないことに戸惑っていたが、再就職の目処がまったく立っておらず、この状況が長引けば、確実に生活が成り立たなくなる。
坂井にとって、武田の強引なやり方でも受け入れるしかなかったのだ。
かくして坂井は、インターナショナル堂楽園ホテルに再就職したのであった。



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