INTERNATIONAL vol.6
- 夢見操一

- 12月9日
- 読了時間: 8分
INTERNATIONAL
(9)
1996年5月31日。
坂井琢朗は地下鉄御堂筋線の心斎橋駅からインターナショナル堂楽園ホテルへ向かっていた。
去る5月13日、坂井は恩師の武田勇にホテルの見学という名目で誘き出され、有無も言わせない強引なやり方で、インターナショナル堂楽園ホテルに再就職することになった。
再就職の目処が立っていない坂井の弱みに巧くつけこんだ計略にハマってしまった。
坂井はそう思っているが、武田が本心を明かすことはないだろう。
だが、今日ここに至っては、坂井が武田を憎むという気持ちは消えていた。
あれから1週間後の5月20日、坂井は正式に入社した。
坂井は「すぐにでも来て欲しい」と話す人事担当の加藤夏子の依頼に応えたのだ。
慢性的な人材不足。
これが1994年にリニューアルオープンしたこのホテルが抱えている問題だった。
社長の竹井剛三(タケイゴウゾウ)と常務取締役の谷崎丈二(タニザキジョウジ)は、長く親しい関係にあった笹山良介の秘書を通じて、ホテル業界から引退している元総支配人と知り合った。その元総支配人は、幾つかのホテルの新規開業に携わり、ホテルの人材確保においても手腕を発揮していた有名な総支配人だった。
その元総支配人が弟子の1人である武田勇を推薦し、竹井と谷崎が総支配人というポジションを土産に武田にオファーをかけることになった。
武田はそのオファーを受け入れて、インターナショナル堂楽園ホテルに移籍した。
だが、総支配人のポジションを辞退して、統括部長としてホテルの運営を担っている。
現在、武田主導の下で急務と位置づけされている人材確保への取り組みが遂行されていて、その求める人材の1人として坂井に白羽の矢が立ったのである。
坂井は人材不足と聞いて違和感を感じた。
武田が神戸のホテルから大阪メンバーを引っぱって来たら、人材不足は随分と改善されるだろうし、大阪・静岡・神戸と共に仕事をしてきて、互いに理解し合っている大阪メンバーがいてくれた方が、ホテルの運営もスムーズにできるだろう。
だが、武田はバーテンダーの滝澤和人だけを引っぱり、あとは別のルートを通じて、人材を確保しようとしているのだ。
今の坂井にはその理由が分からないだけでなく、想像すらできていなかった。
坂井は鉄板焼きと日本料理の主任として赴任し、入社当日から現場に立った。
大谷正彦と出会ったのもこの日だった。
大谷は坂井の2歳年上で、役職は主任だった。
これまでは日本料理と鉄板焼きを掛け持ちしていたが、坂井が加わったことで、これからは日本料理に専念するという。
坂井は主として鉄板焼きを担当して、大谷が公休の日に日本料理をサポートする。
武田はこの体制をつくるために坂井をこのホテルに引き込んだようだ。

鉄板焼きは至ってシンプルなレイアウトだった。
入口から店内を見ると、正面のガラス張りの前にAカウンターがあり、Aカウンターと向かい合わせの壁の前にBカウンターがある。
絶景ではないが、景色が見えるAカウンターがメインで、Aカウンターから席が埋まるという流れが定着しているようだ。
Aカウンターの奥に厨房の入口があり、小さなスペースにコールドテーブルとシンクが設置されていて、調理器具や他の備品もあり、かなり狭く感じる。
4人の焼き手が一同に会すると、ぎゅうぎゅう詰め状態になってしまう。
そんな鉄板焼きの焼き手を紹介するなら、やはりシェフ(責任者)の窪田誠司からだろう。
窪田は39歳、背が高くて面長で四角い顔立ち、シルバー縁のメガネをかけている。以前は、神戸のステーキハウスで働いていて、鉄板焼きパフォーマンスの技術を持っている。だが、今はパフォーマンスを封印して、丁寧な仕事を信条にしている。
続いて、スー・シェフの川崎紀夫(カワサキノリオ)40歳。かなり可哀想な境遇だった。
川崎はフランス帰りの料理人で、パリのタイユヴァンで働いていた。
タイユヴァンは凱旋門から徒歩10分ほど場所にあるフランス料理店で、ミシュランの3つ星に格付けされている有名なレストランだった。
インターナショナル堂楽園ホテルのリニューアルの時、フランス料理の設計のことで社長と当時のシェフの意見が合わず、結局、社長が自分の意志を押し通したことが原因となり、そのシェフが退職したという。
それで、新しいシェフとしてタイユヴァンで働いている川崎にオファーが舞い込んだ。
川崎は日本に帰国して、インターナショナル堂楽園ホテルのフランス料理のシェフになるはずだった。だが、帰国してインターナショナル堂楽園ホテルを訪れてみると、すでに別の若いシェフが就任していて、川崎のポジションは無かった。なぜなら、社長がヌーベル・キュイジーヌで有名な人気のシェフを引き抜いてきたからだ。
先に川崎にオファーをかけておいて、ヌーベル・キュイジーヌが注目を集めるようになったからと言って、別のシェフを引き抜いてくるのはいかがなものか!!!
従業員の誰もが社長の行動に疑問を抱いたが、ワンマン社長には誰も逆らえないのだ。
結局、川崎は「この先どこかでフランス料理に移動してやる」いう約束で、鉄板焼きのスー・シェフになった。身長は窪田より少し低いくガッチリした体型で、尖った顎が、繊細な印象を与えて、仕事がよくできる料理人の雰囲気を持っている。
川崎は鉄板焼きの経験が無く、1994年のリニューアルオープンから焼き手のスキルを学び現在に至っているが、「たぶん移動は無いだろう」と半ば諦めているようで、坂井が自己紹介で「フランス帰り」と告げると、川崎は大喜びで自身のタイユヴァンでの武勇伝を延々と熱く語って聞かせた。
この時、他の3人の焼き手はどこかへ消えていなくなった。
坂井は「この人、ここでは浮いてる存在なんだ」と確信した。
つづいて、篠崎啓二(シノザキケイジ)34歳。鉄板焼き一筋の中堅である。
篠崎は、髪が長くてブラウンに染めていて、口ひげを生やしている。
窪田と同様にホテルの鉄板焼きで仕事をするのは初めてだった。
窪田は立ち振る舞いも会話などもホテルのイメージに合っていて違和感は感じられない。
一方、篠崎は場末の店の陽気なおじさんのようで、自分勝手にボケてツッコミ、笑い、話がどんどん逸れてゆき、結局、何を話しているの分からなくなっている。
坂井も篠崎の話に全くついていけなかった。
最後に、加藤光輝(カトウコウキ)25歳。まだ焼き手の修行中で、ランチタイムの時にカウンターに立って肉を焼くことがあっても、ディナータイムでは厨房の中で作業をしていて、カウンターに立つことはない。
加藤はスポーツ刈りで、目が野球少年のように輝いていて、夢に向かって頑張っている好青年というフレッシュな存在だった。
坂井は、初めて鉄板焼きの店内を見た時、立派なワインセラーに興味を抱いた。
横長の店内、奥の壁に埋め込むように2台のワインセラーが設置されていた。
この鉄板焼きでは、米沢牛のA5ランクに拘っていると聞いた。
坂井は、超高級と称される黒毛和牛だけしか使用しないこの鉄板焼きのワインのラインナップに期待を寄せた。
が、しかし・・・ 坂井は「嘘だろ?」と首を振った。
でも、理由は分かる。今まで、鉄板焼きにワインをしっかり取り扱うことができるスタッフがいなかったため、当たり障りの無いワインばかりの詰め合わせレベルに落ち着き、立派なワインセラーも宝の持ち腐れ状態になったのだろう。
坂井は「ここならワインは売れる、売上もあがる」そう直感し疑うことはなかった。
次の日、坂井は武田に鉄板焼きのワインの再選定とワインリストの改正を提案した。
「やったらええやん」武田の一言で、坂井のやる気に火が付いたのであった。
坂井が鉄板焼きという店舗で働くのはこれが初めてで、1から覚えて身に付けていくことから始めなければならない。また日本料理の経験もないため、サービススタッフのサポートをするためには、これも1から覚えて身に付けていくしかないのだ。
坂井はやるべきことに食らいつきながら、新たなワインの選定とワインリストの改定に着手した。5月20日に入社してから何かとバタバタする日々が続いた。
このバタバタが功を奏したのか、覚醒亢進の症状は出ていない。
岸和田に引っ越してから住んでいるコーポは駅の近くにあり、真夜中に作業車などが線路を走るとコーポが少し揺れて、その振動に過剰反応して飛び起きてしまうという症状が続いていたが、フランスから帰国した後、随分と改善されたように感じていて、5月20日以降は1度も発生いない。
心機一転、今までに経験したことがない鉄板焼きや日本料理での業務とワイン関係の新たな試みに没頭していることが、覚醒亢進の症状を抑えているのかも知れない。
今日は1996年5月31日、坂井が入社してから12日目である。
坂井は、この期間があっという間に過ぎたと感じていた。
それは、坂井がもの凄く集中して日々の業務を遂行してきた証なのだろう。
今日は、新しいワインリストが納品される日で、これで一足先に納品されている新たなワインと新しいワインリストが揃うことになる。
坂井は、この試みも結果が出てこそ認められる、と肝に銘じて気合い入れた。
ホテルの従業員の通用口は、ホテルの東側から地下へ通じる細い通路の奥にある。
坂井がその通路に入ろうとした時、社長の竹井剛三がホテルのエントランスから出て来るのが見えた。
坂井が入社してから、社長の姿を見るのは、これが2回目である。
入社日に社長に挨拶した後、今日まで社長を見かけていない。
坂井は、実際に社長ってどんな人なんだろう?と興味を抱き始めていた。




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