INTERNATIONAL プロローグ
- 夢見操一

- 12月3日
- 読了時間: 12分
更新日:12月4日
プロローグ
2025年5月中旬。
紫外線が強まったせいだろうか、坂井琢朗(サカイタクロウ)の顔は小麦色に染まり、露出している肌も同じで、色だけで判断すると、ゴールデンウィークに沖縄でマリンレジャーを愉しんできたように見受けられる。
だが、坂井は沖縄には行っていない。というようりも、ゴールデンウィークも休むことなく作業を続けていて、余暇を楽しむ時間は無かったのだ。その作業とは、ワイン用ブドウの栽培管理である。
今の時期は、新梢が伸びて展葉し、花穂の成長も始まるため、花器の状態をチェックして、花器がつかなかった新梢と花器を摘み取る新梢を剪定し、花器を残した新梢を誘引するという作業を行っていた。
坂井がワイン用ブドウの栽培を始めてからもうすぐ丸5年を迎えようとしていた。
ブドウの栽培を始めた時は、ブドウの栽培管理のことをまったく知らないド素人だった坂井であるが、今では様々な作業にも慣れて、日々の作業に余裕さえ感じていた。
坂井がワイン用ブドウを栽培しようと思った切っ掛けは、学生のアルバイト時代から長きに渡り、ホテル業界の仕事に携わってきたことが関係している。
坂井は、勤務したホテルで料飲部門の業務を担当していて、ソムリエという職種に憧れを抱き、1994年にソムリエ呼称資格を取得していた。
だが、翌年の1月に発生した阪神淡路大震災で被災して、生活環境が一変した。
坂井は、避難生活を余儀なくされ、数ヶ月の避難生活を経て、再就職先を探し始めて、採用されたホテルに移籍した。
心機一転、新たに開業するホテルでの再出発を試みた坂井だったが、実は、大震災の発生時に受けたダメージによって覚醒亢進になり、些細な振動や音に身体が敏感に反応してしまい、仕事に集中できないという状態に陥っていた。
「おまえはいつもボーッとしているな」と、
職場の上司から責められ罵られ、
「おまえは何をやりたいんだ?」と、追求される度に坂井の覚醒亢進症状が悪化し、坂井の心にストレスだけが増幅していった。
そもそもこのホテルの面接の時に、坂井がこの覚醒亢進を煩っていることを伝えていれば、状況は違うものになっていたかも知れない。
だが、「この症状を伝えたら、採用されないかも知れない」と思い伝えられなかった。
坂井はこの現状に苦しみ悩み続けて、
--この再就職は時期尚早だったのかも知れない
と思い、退職することを決意した。
--じゃ、この先どうやって生きていくの?
ーーそうなんだよね・・・
--自分自身を苦しめている覚醒亢進を克服する方法はあるの?
ーーう~ん、わからないけど、とにかく何かやってみるしかない!!!
坂井は自問自答を繰り返して、フランスのワイン産地へ行くことを決めた。
「おまえはワインを売りたいのか? それとも、ワインをつくりたいのか?」
上司の言葉が坂井の心を動かしたのだ。
そもそも坂井は、ワインに興味を持ち、ワインのサービスを専門とするソムリエに憧れて、ワインの勉強に励み、ソムリエ呼称資格を取得していた。
だが、ワインをつくるという発想は持っていなかった。
坂井は、「ワインをつくっている人たちに会ってみたい」と強く思うようになり、一旦、ホテル業界から離れて、世界的に有名なワイン産地を巡ることを決意した。
1996年3月28日、坂井は単身でフランスへ飛び立ったのだが、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着した瞬間、言葉の壁にぶつかって右往左往する羽目になった。
これは当然のことだろうが、さすがに準備不足で無謀な挑戦と言わざるを得ない。
坂井は繰り返される苦難に翻弄されながらも、世界的に有名なワイン産地のボルドーに辿り着き、レンターカーでオー・メドックのシャトーを巡った。
伝統と格式を感じさせる個性的なシャトーの数々、そして、広大なブドウ畑は、坂井の心を踊らせた。
坂井はシャトー街道の傍らにレンタカーを停めて、ブドウ畑を見渡しながら、
「老後はワイン用ブドウを栽培しながら過ごすのもいいよね」と、
未来の坂井自身がワイン用ブドウを栽培している姿を思い浮かべていた。
そして、29年が経った現在、坂井はワイン用ブドウを栽培している。
坂井は広大な畑を所有していないが、自宅の敷地内にブドウ栽培用のハウスをつくり、ワイン用ブドウを栽培している。
場所は街中から外れた山の麓で、周囲には放置された田畑が多数残っていて、誰も住んでいない古民家が点在している。
そんな光景を見ると、すっかり廃れた日本の農業の未来に暗い影しか映らない。
坂井は、放置された田畑を取得して、この辺り一面をブドウ畑にしてやろう、なんて思ったりもするが、現時点では、今栽培しているブドウをしっかり成長させて、収穫できるようにすることに専念していた。
敷地の周囲をフェンスで囲み、入口にはアーチ扉を設置している。
アーチ扉の上部にブザー機能つきのセンサーライトを取り付けていて、来客を知らせてくれる。
フェンスを前にして敷地を見ると、右側にブドウ栽培用のハウスが奥まで続いていて、左側に簡素なガゼボがあり、木製のテーブルと椅子がセットさせれている。
ガゼボは、坂井の休憩所だが、来客時にはお茶とお茶菓子で客をもてなしている。
坂井はハウスの奥でピノ・ノワールの花器の状態をチェックしていた。
花が咲き始めているが、花びらは無い。雄しべが花帽を持ち上げている。
花が咲き始めると、次のステージに向けての作業が待っている。
坂井は立ち上がって、空を見上げた。
蒼天に輝く光が燦々と降り注ぎ、風がブドウの葉を揺らして通り過ぎて行く。
その時、入口のアーチ扉のブザーが鳴った。
坂井は、すぐに入口へ向かった。
アーチ扉の外で男性が立っていて、敷地の中を覗っている。
坂井はその男性に近づいた。
背丈は坂井と同じぐらいで、体型は坂井より恰幅がいい。
男性は、丸顔で白髪交じりのオールバック、目が優しく、唇が厚めで、優しい雰囲気を持っている。紺のスラックスと白い半袖のシャツ、ノーネクタイで、左肩にショルダーバックをかけている。
「突然、お邪魔して申し訳ございません」と、男性は丁寧に言う。
「いえいえ、大丈夫ですよ」と坂井が応えた。
「え~と、坂井琢朗さん・・・ですよね?」と男性は確認するように訊ねた。
「そうですけど。どちら様ですか?」と坂井が訊ね返した。
男性はショルダーバックから名刺入れを取り出し、名刺を抜き出して、
「こういう者です」と坂井に名刺を差し出した。
坂井は名刺を受け取り、
「雑誌社の方ですか・・・」と呟くように声を漏らし、氏名を確認して、目を丸くした。
大谷正彦(オオタニマサヒコ)?
坂井は、「どこかで聞いた名前だ」と思い、記憶を辿った。
「坂井さん、随分とご無沙汰でしたね」と大谷が笑みを浮かべる。
「えっ・・・あっ、あの日本料理の主任ですか?」と坂井は驚いた。
「いや~、探しましたよ」と大谷が再会を喜ぶように言った。
坂井はアーチ扉を開けて、
「すぐに思い出せなくて、すみません」
と伝えながら、大谷を迎え入れて、ガゼボへ案内する。
「もう、かれこれ29年になりますからね。お互い歳を取りましたし・・・」
大谷は坂井の後について進みながら、
「でも、坂井さんは昔と変わってませんね。いや、若くてビックリですよ」
とお約束通りの言葉を投げかける。
「いえいえ。大谷さんもお元気そうで何よりです」
坂井も同じように言葉を返して、
「どうぞ」
と椅子に腰掛けるように促した。
大谷は腰掛けると、ショルダーバックを足下に置いた。
坂井は一旦屋内に入り、冷たい麦茶と冷やしたわらび餅を用意して、大谷に提供した。
「大谷さんが雑誌社で記者をやってるって、本当に驚きですよ」
坂井は大谷と向かい合うように座りながら、
「なんでですか?」と訊ねた。
大谷は「いただきます」と軽く頭を下げてから麦茶を一口飲んでから、
「いや~、あの時は本当に大変なことになって、失業保険を受給しながら再就職先を探してもまったく採用されなくてね・・・」
当時の苦労が伝わってくるような口調で、
「この際、職種を変えてみようと思って、ホテル機関誌で有名な雑誌社に応募してみたけど不採用でドボーン。こりゃダメだと思ながら、新聞の求人案内で目にとまった雑誌社を応募したら、なぜか採用されたんだよ。それからずっと記者やってる」
と簡潔に経緯を伝えた。
坂井は数回頷いて、大谷の話を理解したサインを送り、
「その記者さんがここへ来たということは、もしかして取材ですか?」
と目を輝かせて訊ねた。
「相変わらず勘が鋭いね」
大谷は坂井より2歳年上であり、坂井に気を遣う使う必要は無いが、29年ぶりという長い空白を意識して丁寧な言葉を使っていたようだが、二人の空気感が打ち解けてきたことを察して、気軽に言葉を使うようになった。
「ちょっと取材させてもらおうかなと思って、君を探して、遙々ここへやって来た」
「やっぱりそうですか。その取材ってこれですか?」と坂井はブドウたちを指した。
坂井のワイン用ブドウ栽培は、ワインをつくることを前提にしていない。
当然、坂井が酒造メーカーの免許を取得できるはずもない。
坂井はワインを飲まずしてワイン用ブドウのポリフェノールを活用する手法を考えた。
坂井は、新型コロナウイスルによるパンデミックにより、日本でも緊急事態宣言が出された時に、この先、何が起こっても不思議では無いと思い、かねてより思っていたワイン用ブドウの栽培に着手した。
その目的は、ワインをつくることではなく、ワイン用ブドウをワイン以外の目的で活用する手法を研究して世に送り出すことが目的だった。
この5年間、坂井は自分の身体を使って、地道な研究を続けてきたことが、大谷の取材によって世に出ることになると思い、心がウキウキする感覚に包まれていた。
「これって、ブドウだろ」
大谷は坂井の期待に応えることなく、「違うよ」とあっさり切り捨てた。
ーー即答かよ!!!
坂井は、ちょっとぐらい興味示せよ、と憤りを感じていた。
坂井は、自分が勝手に期待して、あっさり切り捨てられたことに、気持ちのやり場を失い、「29年ぶりに再会したんだぞ。普通、嘘でも興味を持ったふりぐらいするだろ」と情けないグチを充満させていた。
大谷はそんな坂井の心情を他所にして、
「今回の取材はね、あのホテルことなんだよ」
と切り出した。
「あのホテルことって何ですか?」
坂井は期待を裏切られた腹いせとばかりに知らないふりをした。
「何を今さら。一緒に働いてたくせに、知らないとは言わせないぞ」
記者たる者の信条なのだろう、大谷は取材に妥協はしない。
坂井はあのホテルのことを隠し続けてきた。
あのホテルで働いてことさえも完全に消し去りたいと思っていた。
「逆に訊きますけど。今更、あのホテルのことを取材してどうするんですか?
記事にしたところで、読者が喜んでくれるとは思えませんけど」
坂井は引き下がることなく、期待を裏切られた腹いせを続ける。
「それはどうだろうか。あのホテルは間違いなくヤバいことをやっていた」
大谷は口調を強めて、
「坂井、おまえも知ってたんじゃないのか?」
と上半身を前に乗り出して、鋭い眼差しで坂井の目を見た。
「何のことでしょう?」
坂井は心の奥底に封印していたあのホテルの裏の顔が蘇り始めたことを認識したが、知っていたことを認めることはできない。
「あのホテルの情報は、当たり障りの無いレベルだけに限定されて、重要な情報は全て消し去れているんだ。これをおまえはどう思う?」
「どう思う?と言われても、答えようがないですよ」
坂井の目に動揺の色が浮かんだ。
「それじゃ、質問を変えよう」と大谷が姿勢を正して、
「あのホテルが経営破綻した時、おまえはすでに別のホテルに移籍していた。それなのに、メディアの報道によって、あのホテルの経営破綻が明るみに出た翌日、おまえ、あのホテルにいたよな?」
大谷は核心を突く質問を投げかけた。
「えっ、あっ、いや、それは・・・」
坂井は「見られてたのか」と心の中で呟き、焦りを感じていた。
「あの時点で、あのホテルは閉鎖されていて、関係者しか中に入ることができないように厳重に警備されていたはずなのに、別のホテルのユニフォームを着用したおまえがいたという事実をどう説明する?」
「・・・」坂井は言葉を失い、ただ目を泳がせるばかり。
「これは警察の取り調べじゃないんだ。気楽に話せばいいんだよ」
大谷は坂井の気持ちを楽にさせようとした。
だが、坂井は、「いや、どう見たって取り調べだろ」と思わずにはいられない。
「あの時、統括部長と宿泊のマネージャー、そして、おまえが、ロビーの奥の隅で、何やら話し込んでいたようだが・・・?」
大谷はやわらかい口調で問いかける。
「・・・」坂井は首を左右に振って唇をかみしめた。
「あの状況でただの世間話ってことはないだろ?」
大谷はやわらかい口調のまま坂井を追い詰めていく。
「ーー例えば、僕が何かを知っていたとして、これを大谷さんに話したら、その後、僕はどうなりますか?」
坂井は例えばの話で探りを入れることにした。
大谷は、坂井が話す気になってきていると察知して、
「話したからって特に何もないし、誰かに狙われるようなこともない」
と坂井を安心させようとした。
「でも、記事にしたら、情報提供者について言及されるでしょ?」
坂井の警戒心はそう簡単に解けない。
「そんな心配は無用。おまえは考えすぎだぞ。随分昔の話で、しかもあのホテルは現存していない。さらに、実質的にあのホテルに関わった人たちの多くは、もう存在していないんだ。あのホテルのことを記事にしたところで、読者は、へぇ~、昔こんなホテルがあったんだ。と思うだけで、誰かが何かをするってことはない。まあ、念のため、ネタの出所は非公開にすることを約束しよう」
大谷は坂井を諭すように話した。
かくして、坂井は大谷の説得に応じて、あのホテルの裏の顔のことを話すことにした。
雑誌社の記者が、かつてあのホテルで一緒に仕事をしていた大谷だったからこそ話す決心をしたのであって、これが見ず知らずの記者だったら話していなかっただろう。
大谷がここへやって来てから、坂井の心の奥底に封印していたあのホテルの記憶が蘇ってくる感覚は、坂井の背筋を凍らせるような恐ろしさを秘めている。
風がガゼボを通り過ぎると、心地良さを感じるが、坂井の心境はどこか嫌な空気が漂う心霊スポットに迷い込んでしまったような気分だった。
一方、大谷は、雑誌記者としてとにかく面白い記事を書き、読者をアッと驚かせることに情熱をかけていて、たとえ随分と昔の話であっても、あのホテルの記事なら、必ず目標を達成できるだろうと、密かに期待を込めていた。



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