INTERNATIONAL vol.35

INTERNATIONAL
(62)
1997年10月10日
この日は金曜日だが、体育の日という祝日で、さらに大安吉日、縁起の良い日だった。
アルシオ・インターナショナルのバンケットルームでは、フル稼働で結婚披露宴が行われていた。
アルシオ・インターナショナルにとっては、初となる秋のブライダルシーズンを迎えて、バンケット・サービスのスタッフも、バンケット・バーのスタッフも、バンケットの調理スタッフも慌ただしく動き回っていた。
坂井琢郎も朝早くに出社して、バンケット・バーの準備を開始し、後から出社してきたバンケット・バーのスタッフたちに引き継いでデスクへ。結婚披露宴が終了した後、夜に行われる有名企業の式典とパーティーの内容を確認していた。
「300人のビュッフェ、さらにウェルカムドリンクありか・・・」
坂井は、フル稼働で行われている結婚披露宴の対応をしながら夜の準備を平行して行うイメージを描いて、現場に戻って行った。
午前にスタートする結婚披露宴、午後にスタートする結婚披露宴、合わせて8件の結婚披露宴が終了し、大宴会場をリセットして、式典の会場の隣にビュッフェパーティーの会場をセッティングする。パーティー会場の入口に可動式のバーカウンターとバックバー用のシェルフを設置して、飲料とグラス、その他必要なツールを準備する。
結婚披露宴からビュッフェパーティーに切り替えることはかなりタイトな作業である。
この日、坂井琢郎は朝からバンケット・バーにつきっきり状態だった。
そのビュッフェパーティーが落ち着いた頃、アルシオ・インターナショナルの正面玄関の前に1台のタクシーが停車した。
ドアマンが近づき、タクシーを降りるお客様をサポートする。
先に降りてきたのは、現職の参議院議員で国土政務次官の辻井元高だった。
辻井は、恰幅が良くて、ふっくらした顔立ち、髪はオールバック、やや目と眉が垂れ気味で、愛嬌が良い印象だが、グレーのスーツ姿でネクタイを外し、どっしりと構えている姿に強い威圧感を感じさせる。
続いて、タクシーの料金を支払ってから降りてきたのは、鮮やかなレッドのジャケット姿のユキコである。
光沢のある黒髪で上品なひし形のショートボブがよく似合うマダムの雰囲気を持ち、立ち振る舞いがスマートで気品に溢れている。
そんな二人が並んで英国貴族の邸宅を彷彿させる贅沢な空間に入ると、ロビーの空気がザワついた。
通常、現職の国会議員は、前もって利用するホテルや飲食店などに連絡を入れて、安全面や秘匿性の確保などの調整するものだが、今日は何の連絡もなく、突然、辻井元高国土政務次官がアルシオ・インターナショナルに現れたため、ロビーは騒然となった。
坂井琢郎は、辻井元高とユキコが一緒にアルシオ・イターナショナルに来たことを知らないまま、デスクで、明日の予約状況を確認し、バンケット・バーのスタッフの配置などを決めていた。
突如、デスクの上に投げ出していたPHSが振動をたてた。
「うわっ、支配人や」
坂井はすぐさまPHSを手に取った。
「はい、さか」
名前を伝えられないまま、
「今すぐメインバーに来い」と指示され、通話が切れた。
アルシオ・インターナショナルでは、全管理職にPHSを持たせて、すぐに連絡が取れるようにしている。
ほぼ毎日のように支配人が坂井に連絡してくるのだが、いつも一方的で、すぐに通話は切れられる。
最初は、この有無も言わさせない一方的なやりかたに嫌な思いをさせられたが、今ではすっかり慣れて、何とも思わなくなっていた。
坂井は「バーで何があった?」と呟き、2階からメインバーがある5階まで、階段を駆け上がったのだった。
坂井琢郎がフランス料理とメインバーのバックヤードを抜けて、メインバーの入口に近づくと、支配人とシニアマネージャーが並んで立っていた。
坂 井は二人に近づいて、
「何かありましたでしょうか?」と訊ねた。
「坂井。大物国会議員が来てる」と、シニアマネージャーが伝えて、支配人が難しい表情で坂井を見た。
「あそこに座ってるよ」
坂井は、シニアマネージャーが示す方向を見た。
すでにテーブル席は満席になっていて、辻井元高とユキコが窓際のテーブルに座っているのが確認できた。
「ああ、辻井先生じゃないですか」
坂井は笑みを浮かべて、軽い口調で言った。
シニアマネージャーは「えっ」と声をあげて、支配人は声を出さずに目を大きく開いた。
「おまえ、知ってるの?」
シニアマネージャーが半信半疑で坂井に訊ねた。
「はい、いつも対応してましたから」
坂井はさらっと答えて、
「大丈夫です。あとはお任せください」
と伝えて、辻井とユキコの方へ歩いて行った。
坂井琢郎は辻井元高とユキコのテーブルの前で跪き、
「先生、本日はご来店ありがとうございます」と挨拶した。
「おお、坂井君。待ってたよ」
辻井が笑顔を浮かべて、
「ユキコ君がな、坂井君に会いたいっていうさかいに、仕方なく連れてきてやたんや」と誇らしげに言う。
「えっ、本当ですか?」
坂井はユキコを見て、
「ありがとうございます」と笑顔で挨拶した。
ユキコが微笑んだ。
坂井は自分のジャケットを触って、
「相変わらず、凄くお似合いです。素敵ですよ」と、ユキコが身につけている鮮やかなレッドのジャケットを褒め称えた。
「あら、坂井君。どうしたの? ちょっと見ないうちに、なんだか大人になった感じね」
ユキコが優しい口調で言う。
「いえいえ、そんなことないです・・・」
坂井は照れ笑い。
「いや、アルシオでそうとうもまれとんのやろ。ちょっとは大人にもなるわな」
辻井が見透かしたように言う。
「はい。毎日毎日、滅茶苦茶もまれてますから」
坂井が苦笑いで言う。
「ところで、これ飲んだら戻るさかい、先に精算しといて」
辻井がクレジットカードを差し出した。
どうやらインターナショナル堂楽園ホテルに戻るようだ。
「はい、かしこまりました」
坂井がクレジットカードを預かった。
「それとな。ひとつ頼みがあるんやけど」
辻井が表情を変えた。
「はい、どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」
坂井は頭を下げた。
「今、下が大変なことになっとるやろ」
辻井が声を細めて言う。
「ええ、管理職連中がごぞって待機しております」
坂井も声を細めて伝える。
「そやろな」
辻井が腕組みをして、
「坂井君。誰にも見られんようにして、ここから外に出してくれるか」と、小声で坂井に要求した。
坂井は、「承知いたしました」と即答して、口元に笑みを浮かべ、
「お任せくださいませ」と承諾した。
坂井は、辻井から預かったクレジットカードを持って、会計業務を担当する女性社員の方へ進みながら、
「まあ、有名人だからな。しかも大物国会議員ともなれば、こんな要求は普通のことだろ」と思い、脱出ルートをイメージしていたのだった。

この物語はフィクションです




コメント