INTERNATIONAL vol.34

INTERNATIONAL
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1997年4月1日から5月23日のグランドオープンまでの期間、アルシオ・インターナショナルの従業員たちは、研修と開業準備の業務に忙殺されたのだろうか・・・
坂井琢郎にとって、ホテルの開業準備に携わるのは、アルシオ・インターナショナルで4度目だった。
静岡のホテルと泉佐野のホテルの開業準備は、なんとなく似ていたと思える。
また、神戸のホテルとアルシオ・インターナショナルの開業準備は、プロセスは同じように感じるが、業務の内容と空気感は異次元と言わざるを得ない。
社員研修では「ラテラルサービス」を象徴する助け合いの精神で、アルシオのフィロソフィーを学び会得していくのだが、いざ、現場に戻り、開業準備の業務に移ると、奪い合いが始まり、うかうかしていると落とし穴にはまり、取り残されていくのだ。
「いいか、これは、縄張り争いだ。自分の部署が有利に業務を遂行できるように、全力で戦い、奪い取らなければならない。これが管理職の役目だ」と豪語する上司がいた。
坂井はこの言葉に愕然とした。
社員研修では、部署同士が協力し合い、知恵を出し合って、WIN-WINの関係を築くことが重要だと諭しながら、現場では、WIN-LOSEを掻き立ているのだ。
新卒の社員たちを他所にして、移籍組の経験者たちは、この矛盾に振り回されることになった。
確かに「ラテラルサービス」という綺麗事だけで、世界のトップに君臨するラグジュアリーホテルが、無事にグランドオープンを迎えられるとは思えない。
けれど、上からドカンと圧力がかかり、戦場の空気感に押し込まれると、移籍組の経験者たちは、アルシオという満員電車の中でフルマラソンを強いられている気分を味わい続けることになるのだ。
これを忙殺と言わずになんと言うのか・・・
坂井はそんな状況下でも、自らに課せられた職務に必死に食らいついて、グランドオープンを迎えた.
この時、坂井は完全にインターナショナル堂楽園ホテルのことを意識しなくなっていた。
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坂井琢郎がインターナショナル堂楽園ホテルからの脱出を試み、アルシオ・インターナショナルに移籍して、開業準備に追われている間に、日本を取り巻く状況が変わり始めていた。
昨年の10月上旬に発売された月間カレエヌに掲載されたカレデュノフ共和国による日本人拉致事件の記事が発端となり、1997年1月20日に招集された通常国会にて、この日本人拉致事件が議題に上がることが増えていった。
拉致被害者の家族たちも手を取り合うようになり、拉致被害者の家族たちを支援する動きも活発になり、1997年3月25日にカレデュノフ共和国による日本人拉致被害者の家族を中心とする連絡会が発足し、署名や陳情などの活動が本格化した。
それに対して、カレデュノフ共和国側は、カレデュノフ共和国による日本人拉致事件を否定し、日本の東京に拠点をおいているカレノフ総連も否定し、「これは月刊カレエヌのでっち上げ」と非難した。
これにより両国の関係が悪化し、日本国とカレデュノフ共和国との国交正常化交渉は、ほぼ決裂という事態に陥っていた。
グランドオープンを迎えたアルシオ・インターナショナルは、大勢の客で賑わい活気に溢れていた。
坂井琢郎が所属するビバレッジ・セクションは、移籍組の経験者が少ないため、22名の新卒社員をいかにして的確に動かせられるのか、が重要なのだが、大盛況の中で四苦八苦という厳しい現実が坂井を襲った。
グランドオープンした後、遅れて2人の経験者がビバレッジ・セクションに配属され、さらに遅れて、海外のホテルから料飲部にシニアマネージャーが赴任して来て、ビバレッジ・セクションのサポートに入ることになった。
これで、ようやくビバレッジ・セクションに落ち着きが生まれて、日々のオペレーションが円滑に回るようになった。
この状況に至るまでは、坂井は自宅に帰ることができず、従業員の宿泊室(カプセル)に泊まり込んで、職務に当たっていたのだった。
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坂井琢郎がアルシオ・インターナショナルで多忙な日々を送っている間に、インターナショナル堂楽園ホテルを没落へと導く事態が発生していた。
1997年6月。
下野投利銀行の株主総会で、トップに君臨し続けていた深江寿夫と頭取代行職の金見龍作が退陣を表明した。
昨年の決算で、創業以来、初めての赤字決算を出し、事態の改善を求められていたが、改善に至らなかった責任を取って、潔く退いたのである。
長きに渡って続いていた深江の独裁経営が終焉を迎えたことで、カレノフ総連および当総連に属する事業者に湯水のように流れていた資金が止められた。
これによって、カレノフ総連のナンバー2で、日本都市開発クリエイトの社長・竹井剛三も大打撃を受けて、インターナショナル堂楽園ホテルは没落への道を突き進むことになった。
だが、すでにインターナショナル堂楽園ホテルの存在を心の奥底に閉じ込めていた坂井は、この事態をまったく知らないまま、日々の職務に邁進していたのであった。
一方、下野党利銀行の独裁経営者として名を馳せていた深江寿夫が退陣したという知らせは、すぐに大蔵省に届いていた。
大蔵大臣の八塚治は、聖和会の大泉純三と小森光嘉に連絡し、密談を促した。
大泉は、下野党利銀行の深江寿夫とは縁深い関係で、かつて、大蔵政務次官の時に、下野党利銀行とカレデュノフ共和国の国営貿易銀行とのコルレス契約の締結に協力していた。
その当時の大蔵大臣は高下昇で、大蔵省銀行局にいたのが新居昇明だった。
大泉が師と仰ぐ保志田武夫前内閣総理大臣の後ろ盾を利用し、カネで高下を丸め込み、新居と共闘して、このコルレス契約の締結を実現させた大泉は、深江にとって切っても切れない間柄であり、深江の退陣は大泉にとって残念極まりない出来事であった。
だが、この時すでに、大泉は下野党利銀行の没落を予測し、具体的な対応策と下野党利銀行を利用する手法まで練り上げていたのである。
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1997年9月12日
9月に入り、坂井琢郎が自宅に帰れる日が増え始めていた。
今朝、始発で帰宅した坂井琢郎は、ドアの新聞受けに溜まっていた朝刊を取り込み、無造作にローテーブルの上に置いた。
今日は、仮眠を取って、午後から出社する予定である。
早々にベッドに入りたい気持ちだったが、朝刊の一面に大きく記された「第2次阪本竜蔵改造内閣発足」の見出しに気がつき、朝刊を手に取った。
坂井は一面を見ずに、朝刊を開いて、政務次官を確認した。
「国土政務次官 辻井元高」という記載を見た坂井は、「辻井先生が復帰したということは、インターナショナル堂楽園ホテルは安泰ということか・・・」と、久しぶりにインターナショナル堂楽園ホテルのことを思い出した。
辻井は自優守護党の聖和会に属し、インターナショナル堂楽園ホテルの名誉顧問として、社長でカレノフ総連のナンバー2である竹井剛三と通じている。
すなわち、辻井は聖和会とカレノフ総連をつなぐパイプ役と位置づけても過言ではない。
坂井は、昨年の夏、元上司の武田勇から聞かされた裏の顔、裏金とマネーロンダリングなどの話を思い浮かべて、「辻井先生のことは嫌いじゃないけど、やっぱり受け入れられないな」と首を振った。
今は、アルシオ・インターナショナルの社員なんだ。もうインターナショナル堂楽園ホテルのことは考えないようにしよう!!!
坂井はそう強く思い、仮眠をとったのだった。
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1997年10月8日
カレデュノフ共和国に大きな動きがあった。
ジムギルソン元国家主席の後継者であるジムヨンイルが、カレノフ労働党の総書記に任命され、正式にカレデュノフ共和国の国家主席となった。
ジムヨンイルのカレデュノフ共和国・国家主席就任のことは世界中に報道された。
ジムギルソン亡き後、ジムヨンイルが実権を握り続けていたが、カレノフ労働党がジムヨンイルを総書記に任命することを拒み続けていたため、国家主席不在という状態だった。
だが、これでジムヨンイルがカレデュノフ共和国を完全に掌握したことになる。
その夜、この報道を受けて、自優守護党の聖和会の主要のメンバーが顔を揃えた。
八塚治、大泉純三、小森光嘉の3人である。
「ようやく、国家主席になってくれたよ」
大泉が嬉しそうに話す。
「たとえ実権を握っていたとしても、正式な国家主席でない奴と交渉してもなんの意味もない。だからこそ、この時を待っていたんだ」
大泉が八塚と小森を見て、
「会長は、辻井議員に『もうしばらくこの状態を続けてもらう』ことを伝えて、Xデーまでに『的』との関係を解消させることを約束してください」
と依頼し、
「小森議員には、また改めて、今後の新居昇明の動きを封じる策をお伝えします」
と伝えた。
「新居昇明・・・」
小森は目を細めて、
「そうか。新居を封じるために、聖和会に入会させたのか」
と呟くように言った。
「その通り」
大泉は微笑み、
「新居はいろいろ知り過ぎている。Xデーとその次の計略の前に必ず立ちはだかるだろう」
と言って形相を変えた。
「・・・」
八塚と小森は絶句した。
新居を警戒する大泉の策とは何なのか?
そして、前会長の田辺晋一郎の代から練り上げてきた計略とはどんなものなのか?
ついに、その計略が動き始めるのであった。

この物語はフィクションです




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