INTERNATIONAL vol.2
- 夢見操一

- 12月3日
- 読了時間: 14分
(5)
ここで、今日(1996年4月12日)に至るまでの経緯や背景に触れることにする。
1987年8月7日、大物政治家の1人が他界した。
その名は、岸川伸佐(キシカワシンスケ)、1955年11月に2つの保守政党が合同して結成された自優守護党の初代幹事長を務めた政治家である。
この新党結成は、同年10月に再編された革新社会党に対抗するためのもので、初代総裁を務めた鳩宗昭一(ハトムネショウイチ)と共に奮闘し、与党の議席が2/3、野党が1/3という政治体制を確立させた。
これが30年以上も続くこととなる。
1959年3月7日、鳩宗が他界した後も岸川は、自優守護党のトップに君臨し続けて、政界だけでなく財界や宗教団体、反社会勢力などにも大きな影響を与えていた。
戦後、岸川はA級戦犯被疑者として笹山良介(ササヤマリョウスケ)らと共に巣鴨プリズンに収監されていたが、1948年12月に不起訴になり釈放された。
釈放後、笹山はモーターボート競争法成立に向けて岸川に協力を求めた。
この時、岸川はまだ公職追放処分中の身でありながら、政党・派閥、各関連省庁などに働きかけをするなど協力し、1951年6月5日にモーターボート競争法が成立した。
これを受けて、全国モーターボート競争会連合会が設立され、1955年に笹山が会長に就任した。
その後、笹山は管轄官庁からの圧力に対抗する目的で、競艇ビジネスの収益の受け皿とした財団を設立し、管轄官庁の官僚に要職を用意し天下りを受け入れるなどして、管轄官庁からの圧力を押さえ込むことに成功した。
これによって笹山は競艇ビジネスを手中に収めることになり、莫大な財産と絶大な権力を手に入れ、競艇界のドンとして君臨するようになった。
一方、岸川は1979年9月に政界を引退するも、後継者の保志田武夫率いる聖和会や他の派閥、各省庁への影響力を持ち続け、裏から政界を操る昭和の妖怪と称された。
1987年8月7日、その岸川が他界した。
反岸川派は両手を挙げて喜び、岸川の流れを汲む聖和会は息を潜めた。
しかし、この時代の移り変わり示唆する出来事に隠れて、政界を揺るがす大事件が頭をもたげようとしていた。しかも2つの大事件が・・・
1987年11月6日、高下昇(タカシタノボル)内閣が発足した。
かつて自優守護党の最大派閥として党内で実権を握っていた中田派の衰退は見るに堪えないもであった。
世界を巻き込んだ大規模汚職事件の発覚により逮捕された中田強栄(ナカタキョウエイ)は自優守護党を離党し、無所属という立場で中田派を率いていたが、高下の裏切りによって分裂の危機に直面し、中田が切り崩しにかかるも、中田自身が脳梗塞で倒れて失敗に終わり、今年、派閥の乗っ取りという形で決着し、高下総理総裁が誕生した。
これをクーデターと言わずに何と言うのか?
自優守護党の総理総裁の地位を手に入れた高下は「してやったり!!!」と戦国時代の武将の如く下剋上を果たした気分に浸っていた。
高下に協力した竹丸仁(タケマルヒトシ)は、上曾根康隆(カミゾネヤスタカ)内閣で副総理に抜擢されるほどの優れた能力の持ち主で、とにかく頭がキレるだけでなく、どんな苦難にも立ち向かう度胸も兼ね備えていた。
そんな心強い協力者がいたからこそ、高下の総理総裁が実現したと言えるだろう。
だが、すでに高下自身が地雷をを踏んでいることに気づいていなかった。
高下が総理総裁として日本の舵取りを始めてから、7ヶ月が経った1988年6月18日、戦後最大の汚職事件が発覚したのだ。
君主を裏切って君主の座を手に入れた君主にブーメランが炸裂!!!
わずか7ヶ月で高下は窮地に追い込まれた。
だが、高下がすでに踏んでしまっている地雷はこの事件ではなかった。
1988年6月18日に発覚した戦後最大の汚職事件によって国民の不満が爆発した。
政界だけでなく官僚や財界人なども巻き込んだ汚職事件に関わっていた政治家は、総勢90人以上にのぼり、その中でもこの事件に関わった大物政治家の豪華過ぎる顔ぶれは、まるで政界スキャンダルのアカデミー賞の祭典のようである。
そんな状況下で、高下昇総理総裁は内閣改造で窮地からの脱却を狙うも失敗に終わり、元号が昭和から平成に移行した1989年6月3日に内閣総辞職という結末を迎えた。
それでも高下は真野雄介(マノユウスケ)を後任に指命し、自身の再浮上の踏み台にしようと企んだ。これに自優守護党の最高顧問を務める保志田武夫が反対した。
保志田は1987年に他界した岸川伸介の後継者で聖和会の創始者である。
だが、高下は保志田の反対を無視して、真野内閣を発足させたのだが、わずか3日で真野の女性スキャンダルが発覚し、その夏の参議院議員通常選挙で与党の敗北を招いた。
真野はこの結果の責任をとる形で退任することとなった。
それでもまだ諦めない高下は、最強の協力者である竹丸と企んで新たに総理総裁を誕生させた。
山部俊幸(ヤマベトシユキ)新総理総裁は、一連の汚職事件にはまったく関わっておらず、クリーンなイメージを保っていた。
高下と竹丸は、山部のクリーンなイメージを利用して現状の打開を目論み、山部に人事権を与えず党三役の人選に従わせて、政策などは、高下と竹丸が決めて山部に実行させるという、まさに操り人形の総理総裁をこの国のトップに据えたのである。
山部内閣は自優守護党の看板を負わされただけの脆弱な政府であり、自分で自分のことを決められない国は速やかに滅びる!!!という言葉のように早々に崩れると思われたが、1990年の衆議院議員総選挙で圧勝という快挙を成し遂げた。
クリーンなイメージだけで衆議院議員総選挙で圧勝し、汚職事件発覚後、低迷を続けていた内閣支持率をも好転させた山部を総理総裁に起用した高下と竹丸は、策がハマったことにほくそえみ、この機を逃すまいと次の一手をしかけた。
1990年9月28日。この日、歴史が動いた。
ユーラシア大陸の東端にあるカレエヌ半島の北部に位置するカレデュノフ共和国のカレノフ労働党と日本国の自優守護党と革新社会党の間で交わされた「3党共同宣言」の発表を受けて、日本列島に激震が駆け抜けた。
カレデュノフ共和国のジムギルソン国家主席と自優守護党の竹丸仁、そして、革新社会党の参鍋真(サンナベシン)との会談が実現したのだ。
だが、「3党共同宣言」が発表されるに至ったのは、ジムギルソンと竹丸の2者だけで行われた密談での合意だった。これは秘密裏に行われ議事録はつくられていない。
だが、これが両国の国交正常化交渉への第一歩となり、竹丸がこの扉を開けたのだ。
終戦後の日本国にとってカレデュノフ共和国との国交正常化は最重要課題である。
「3党共同宣言」の発表によって、これから国交正常化に向けて様々な交渉が行われる。交渉が順調に進行し、行く先で両国の国交正常化が実現されれば、その扉を開けた竹丸とカレデュノフ共和国に竹丸を送り出した高下の功績は、末代まで語り継がれ、極東平和の英雄として称賛されるだろう。
高下は完全に風向きが変わったと感じ、追い風に乗って再び浮上する自身の姿を想い描いていた。
だが、この「3党共同宣言」の裏にある密談をめぐり、報道というハイエナよりタチの悪いメディアが、様々な憶測の渦に国民を巻き込み、正しい判断ができない状況をつくりだし、同調圧力という武器を使って追求しようとした。
これまでに何か事が起こる度にメデイアは同じようなことを繰り返してきたが、追い風は止まることなく、1991年1月、両国の国交正常化交渉が幕を開けた。
日本とカレデュノフ共和国の国交正常化交渉は、第1回がカレデュノフ共和国で行われ、第2回が3月に日本で行われた。次回は5月20日、中華人民共和国の首都で行われる予定である。
竹丸は事務室で、次回の案件に目を通していた。
「次はこの問題か・・・」
1987年11月に発生したコレシュドエアライン爆破事件の実行犯、カレデュノフ共和国の女性工作員が日本から拉致されてきた女性に日本人偽装の手ほどきを受けたことを明らかにした。この現地名「パクセウン」という日本人女性の存在について提起する予定になっている。
「う~ん、これは厳しい案件だが、さて、どうするか?」
竹丸が両腕を組んだ時、
「先生、失礼いたします」と、
秘書の片岡怜二(カタオカレイジ)が入ってきて、
「先ほど、田辺晋一郎先生がお亡くなりになられました」と報告した。
「そうか。田辺が・・・」
竹丸は立ち上がって、
「確か入院していたな。片岡、車を回せ。これから病院へ向かう」
と片岡に指示した。
「かしこまりました」片岡は頭を下げて、事務室を出て行った。
「まだ逝くには早すぎる。本来らな次の総理総裁は田辺だった」
竹丸は、高下内閣の時、田辺が自優守護党の幹事長として、党だけでなく内閣をも支えていたことに敬意を抱き、
「派閥は違えど、田辺も盟友だった・・・」と唇を噛みしめた。
1991年5月15日、田辺晋一郎没(67歳)
保志田武夫から聖和会を引き継いだ田辺が保志田より先に逝くという事態を誰が予想していただろうか?
聖和会に逆風が吹き続く中で、聖和会の基盤が揺らいでいた。
日本とカレデュノフ共和国の国交正常化交渉の第3回目は予定通り行われた。
日本側が日本から拉致されてきたという女性『パクセウン』の存在について提起した瞬間、カレデュノフ共和国の交渉代表団の態度が一変した。
完全拒否!!! この強烈な拒絶感に日本の交渉代表団が絶句した。
これを境に交渉は平行線を辿るばかりで、これといった成果をあげられない状況が続くことになった。
次第に国交正常化交渉への期待は薄れてゆき、高下と竹丸が描いていた未来永劫は絵に描いた餅となっただけでなく、以前に高下が踏んでしまった地雷の爆発が刻一刻と忍び寄っていた。
1987年、中田派を乗っ取る形で最大派閥の長となった高下を妨害する者が現れた。
それは中田強栄を支持していた右翼団体で、総理総裁目前の高下に対して、執拗に嫌がらせの街宣活動を繰り返していた。
高下派の大物議員と高下を支持する他派閥の大物議員の数名が右翼団体の妨害を抑え込もうとして動いたが、状況は改善されなかった。
そこで、竹丸と大澤一郎(オオサワイチロウ)は、関東瀬川通運社長の綿部公康(ワタベキミヤス)に仲介を依頼することにした。
綿部は暴力団関係者との繋がりが強く、都内に拠点を置く水河会の2代目会長の岩井匡鷹(イワイマサタカ)に仲介を依頼した。
水河会と右翼団体との話し合いが行われ、右翼団体が提示した条件をのむことで話がついた。
これにより、右翼団体の妨害行為はピタッと収まり、1987年11月、高下は、晴れて総理総裁に就任する運びとなった。
本件に協力した岩井はすでに政界とは繋がりを持っていて、1986年に岸川伸佐から依頼を受けて、明和相互銀行の乗っ取りに加担していた。
岩井が明和相互銀行が所有する宅間カントリークラブ開発の所有権を獲得していたのも、岸川に協力した見返りであった。
1987年8月に岸川が他界したため、新たな政界との繋がりを求めていた岩井にとて、高下総理総裁とその使者として面会に来た竹丸との縁は願ったり叶ったりである。
さらに、本件で関東瀬川通運とのパイプも今まで以上に太くなったことは、まさに一挙両得であり、岩井にとってはいいことずくめだったのだ。
1988年の汚職事件の発覚後、高下総理総裁にも疑惑が浮かんでいた。
1989年4月、高下の金庫番として優れた才を持つ青山太兵(アオヤマタヘイ)が検察官の事情聴取を受けて「事件性ナシ」と判断されたが、新たなスクープの発覚が高下を辞任へと追いつめる。さらに、検察官が1986年の明和総合銀行に関する事案について追求を始めたことで、青山は竹丸に相談し、この件が明るみになれば、高下総理総裁は辞任するだけでは済まず、政界追放になる旨を伝えた。
1986年の明和相互銀行に関する事案とは、当時、大蔵大臣だった高下と秘書の青山、事務局の福井民雄(フクイタミオ)、大蔵省から明和相互銀行に天下っていた山城和正(ヤマシロカズマサ)、さらに八卦象画廊社長の神鍋益生(カンナベマスオ)と品川貞徳社長の加藤重雄(カトウシゲオ)が関与したとされる裏金づくりの詐欺事件疑惑のことである。
青山から話を聞いた竹丸は「対処法を考える」と伝え、ある言葉を思い出した。
「裏の汚れ仕事はウチで引き受けましょう。今後ともよろしゅうお願いしますわ」
1987年の右翼団体との仲介の件で高下に協力した水河会の岩井匡鷹が面会に来た竹丸に伝えた言葉である。
竹丸は受話器を手にして、プッシュボタンを押した。
その後、1989年4月25日、高下総理総裁が辞任を発表した翌日、青山の変死体が発見された。
警察は自殺と発表し、真実は闇に葬られた。
1991年9月3日、水河会第2代目会長を務めた岩井匡鷹が他界した。
高下と竹丸は岩井の訃報を聞いて胸をなで下ろした。
暴力団関係者との繋がりは、自らの政治生命を奪う危険な関係であり、高下も竹丸もこれ以上関わりたくなかったからだ。
これで岩井との縁が切れた。関東瀬川通運社長の綿部公康が余計な事をリークしなければ、岩井との関係は闇に葬れるだろうと思って疑わない高下と竹丸であった。
1991年11月、山部総理総裁が退任し、宮岸善正(ミヤギシヨシマサ)内閣が発足した。
山部の梯子を外し、宮岸を総理総裁に押し上げたは、もちろん高下と竹丸である。
年が明けた1992年2月14日、東京地検特捜部が、関東瀬川通運社長の綿部公康と幹部社員ら4人を特別背任容疑で逮捕した。
まだこの時点では詳細が明らかにされていないが、高下と竹丸にとっては極めて深刻な状況になった。ついに地雷が爆破したのである。
1992年夏、宮岸内閣の下で行われた参議院議員通常選挙で、自優守護党が勝利した。
自優守護党所属の衆議院議員の逮捕や関東瀬川通運の事件などの影響を受けて、宮岸内閣の支持率が低迷する状況下での勝利は、自優守護党の再浮上に向けて意義のある結果だったに違いない。
だが、関東瀬川通運の事件の捜査が進むに連れて明らかになる事実は、容赦なく自優守護党にダメージを与え、やがて内部抗争による分裂へと進むこととなる。
1992年9月28日、関東瀬川通運から多額の政治献金を受け取っていた竹丸仁が、政治資金規正法違反で略式起訴されただけでなく、1987年の高下と右翼団体とトラブルの実態、竹丸と関東瀬川通運社長の綿部と水河会の関係、この件で右翼団体や水河会と関わった自優守護党の国会議員の存在が白日の下に晒された。
これによって竹丸は議員辞職に追い込まれたが、高下は高下派の会長を辞任しただけで政界にしがみつづけた。これを政界の寄生虫と呼ばずになんと呼ぶのか?
その後、自優守護党の最大派閥高下派は、会長の椅子を巡る争いが激化し、分裂という結果を招いただけでなく、議員辞職した竹丸のポジション争いも激化し、党内分裂に発展した。
1993年6月18日、宮岸内閣不信任決議案が、自優守護党内から造反者が続出したことによって可決され、衆議院が解散した。
その後、衆議院議員総選挙に向けて、自優守護党を離党し新党を結成する動きが活発になり、新党ブームが起こり、政界はまさにカオス状態に陥った。
衆議院議員総選挙の結果は、自優守護党の議席が過半数を下回り、新党が躍進し、自優守護党勢力以外の党による大連立政権が誕生し、自優守護党が野党となり、38年続いた55年体制が崩壊した。
国民は歴史を変えた大連立政権に期待したが、合同した複数の党それぞれ異なる政策
などを掲げていて、大連立政権は一枚板にはなれず、不安定な政権運営が続いた。
大連立政権は、1994年4月に内閣総理大臣が交代し立て直しを計るが、革新社会党が、大連立から離脱して、同年6月に大連立政権は崩壊し、新たな連立政権が誕生した。
革新社会党の委員長の村下昇市(ムラシタショウイチ)が内閣総理大臣に就任し、自優守護党の総裁の菅野大政(スガノヒロマサ)が副総理大臣に就任した。
55年体制で与党と野党第1党の関係を続けてきた相反する2大政党が連立するという政界のカオスを象徴する状況が続くことになる。
1994年7月8日、カレデュノフ共和国の国家主席ジムギルソンが他界した。事実上、日本とカレデュノフ共和国との国交正常化交渉が頓挫している状況でのジムギルソンの死は、今後の国交正常化交渉に暗い影を落とすこととなった。
その1年後、1995年7月5日、自優守護党の最高顧問保志田武夫が他界し、さらに、同月18日、競艇界のドンから日本のドンと称されるようになった佐山良介が他界した。
どちらも先に他界した岸川伸介と深い関係にある人物である。
さらに同年9月15日、自優守護党の各派閥を渡り歩きながらも様々な功績を挙げて、先んじて他界した田辺晋一郎とともにニューリーダーの1角に数えられていた渡貫通春(ワタヌキミチハル)が他界した。
渡貫は1976年、保志田武夫内閣で厚生大臣に任命されて初入閣を果たすと、農林水産大臣、大蔵大臣、通商産業大臣を歴任し、宮岸善正内閣では副総理に任命されていて、総理総裁まであと一歩のところで無念の他界となった。
立て続けに大物政治家が他界しているこの流れは止まらず、翌年の1996年3月28日、竹丸仁が他界した。
自優守護党の裏で実権を握り、政局や派閥争いなどに大きな影響を与え、さらに、
カレデュノフ共和国の国家主席ジムギルソンとの密談によって国交正常化交渉の扉を開けた政界のドンの他界は、時代が大きく変わったことを世に告げていた。
このような経緯で今日(1996年4月12日)に至っている。




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