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INTERNATIONAL vol.1

  • 執筆者の写真: 夢見操一
    夢見操一
  • 12月3日
  • 読了時間: 13分

(1)


 長堀通りから北へ4区画半、東西を阪神高速1号環状線に挟まれた長方形のエリアは、お洒落なカフェやレストラン、デザイナーズショップなど個性を売りにする店が集まる人気のスポットとして注目を集めている。

 ここは南船場と呼ばれる町で、1984年に堂楽園ホテルが開業した頃は、控えめで奥ゆかしさを感じさせる静かな町だった。

 最寄りの駅は、大阪メトロの御堂筋線の心斎橋駅と堺筋線の長堀橋で、長堀通りの南側は、心斎橋筋商店街をはじめ、鰻谷通りなど、多くの人で賑わう繁華街になっていて、このホテルの利用客にとっては、とても便利な場所にあると断言できるだろう。

 このホテルの運営管理を行っているのは、株式会社日本都市開発クリエイトで、総工費25億円超を投じて、客室125とレストラン6店舗、大小の宴会を持つホテルとして開業した。

 開業した当時の堂楽園ホテルは、シンプルさを前面に打ち出していて、スッキリ感が利用者に好感を与えて、次第にリピーターが増えてゆき、ホテルの業績も右肩上がりを続けていた。

 だが、1990年代になると南船場にお洒落なカフェや個性的な飲食店などが進出するようになり、デザイナーやブランドというイメージが南船場に溶け込んでいった。

 この環境の変化に便乗するように、日本都市開発クリエイトは1993年に堂楽園ホテルの全面リニューアルに踏み切った。

 シンプルからゴージャスへと装いを変えて、インターナショナル堂楽園ホテルと改名し、1994年の春にリニューアルオープンして、現在(1996年)に至っている。

 ヨーロッパの建造物でよく耳にするバロックやルネサンスなどの様式をミックスしてつくられた外装と内装などが高く評価されて、飛ぶ鳥を落とす勢いでさらなる躍進を遂げるインターナショナル堂楽園ホテルは順風万端そのもであった。



(2)


 1996年4月11日。

 坂井琢朗はJALとエールフランスの共同運行便で関西国際空港へ向かっていた。

 シャルル・ド・ゴール空港を出発したのは、パリの現地時刻で4月10日の19時15分。

 日本が近づいている現在の時刻は、4月11日の14時20分。

 予定通りなら、あと1時間ほどで関西国際空港に到着する。

 坂井は窓の外から眼下に広がる景色を眺めているが、その景色は坂井の記憶には残らないほど、意識が遠のいている。

 帰国の日になって体調を崩し、なんとか航空機に搭乗したものの、食欲は影を潜めて、機内食を辞退する始末で、ビールでノドを潤した後は、ずっと眠っていた。

 およそ10分ほど前に目覚めた坂井は、今の状況が把握できないまま、窓の外をぼんやりと眺めながら、脳が動き出すのを待っている状態であった。

 坂井の体調はまだ回復していないが、「こんなに眠ったのは震災後初めてだな」と不思議な感覚を覚えていた。

 覚醒亢進状態の坂井は、ちょっとした振動や音にも過剰反応を起こしてしまい、夜中に飛び起きて眠れない日々が続いていた。

 今回のフランス独り旅は、坂井自身がほんとうにチャレンジしたいと思い、無謀な挑戦と分かっていても決行した。

 当然のごとく苦難の連続だったが、計画したことは完遂できた。

 ただ必死にワイン産地を巡り、ワインづくりに携わっている人と出会い、ワインづくりに関する話を聞くことができたのだが、かなり無理をしていたことが祟って、最終日にドドッと疲れが噴出して、体調を崩してしまったが、これがこの長い睡眠をもらしてくれたことで、今後、坂井の覚醒亢進が改善される切っ掛けになるかも知れないと感じられたことは、坂井自身にとって大きな収穫だと言えよう。

 今、坂井は帰国した後のことを考えていない。

 もちろん再就職は必要不可欠で、仕事がなければ収入を得られず、路頭に迷うことになる。

 だが、次の再就職で失敗したくないという思いがあり、焦って飛びつくことなく、慎重に再就職の活動を進めたいと思っていた。

 少しずつ坂井の脳が動き始めて、機内のアナウンスの声に耳を傾けられるようになり始めた。

 長く感じたフランス独り旅もまもなく終わろうとしている。

 新たな一歩を踏み出す時が近づいている。

 次は失敗しない。いや、失敗してはいけない。

 そんな坂井のささやかな思いがことごとく打ち砕かれることを、今の坂井自身が予測できるはずもなかった。


 JALとエール・フランスの共同運行便はほぼ定刻通りに関西国際空港に到着した。

 坂井は入国手続きを済ませて荷物を受け取ると、そのまま自宅へ向かった。

 自宅の最寄りの駅は、南海電鉄南海線の蛸地蔵という変わった名前の駅だ。

 あの大震災の後、坂井は神戸から岸和田に引っ越したのだが、単身者用の物件に空きが無かったため、妻帯者用のコーポを選択した。

 その理由は、蛸地蔵駅からものすごく近いということだけだった。

 独り身の坂井にとって広すぎる物件だが、明るいリビングが快適で、休日にゆっくり寛げる空間が気に入っていた。

 15日間という長い旅を終えて、現実に戻る坂井にとって、やはり自宅がもっとも疲れを癒やしてくれる場所なのだろう。

 無事に帰宅した坂井は、スーツケースの中身を大雑把に整理しただけで、夜は早めに就寝したのであった。



(3)


 翌朝(4月12日)、目を覚ました坂井琢朗は、寒さに震えていた。

 冬の寒さが戻ってきたようだ。

 4月のフランスは寒かったが、坂井は帰国して早々に冬の寒さになるとは思っていなかったため、なんで冬なんだ? と驚くばかりだった。

 だが、今日の天気予報では晴れマーク、おそらく洗濯日和になるだろう。

 坂井はまず旅で使用した衣服の洗濯から手をつけることにした。

 洗濯機が稼働してしている間に、留守番電話の内容を確認して、帰国報告をしなければならない人物に連絡をいれた。

 最初に、今回のフランス旅の計画と準備をサポートしてくれた神戸のホテルのチーフソムリエ。彼とはゴールデンウィーク明けに会う約束をしていた。

 次に、学生アルバイト時代からいろいろ面倒を見てくれた恩師である。

 その次は女性で、留守番電話にメッセージが残されていたので、とりあえず連絡して、すこしばかりフランス旅の話をしただけだった。

 坂井は洗濯物を干してから、スーパーで食料を調達して、その後は、部屋でゆっくり過ごしながら、フランス旅15日間の記録を書き残すことにした。

 フランスの行く先々での出来事や訪問したワイナリー、さらに、出会った人々などをメモ帳に記していたので、そのメモを確認しながら旅を振り返った。

 日本とフランスとでは交通規則などが異なり、レンタカーの左ハンドルと右側通行に苦しめられたことやフランス語という壁にぶち当たり、コミュノケーションに苦労させられたことなどは、振り返ってみると笑えてしまう。

 ボルドーとブルゴーニュの全く異なる世界感に心を踊らせて、ワインづくりに携わる人たちの情熱と弛まない努力に心を打たれた。

 坂井はそんなフランス旅の余韻を噛みしめながら1日を過ごしたのであった。


 その夜のこと(1996年4月12日)

 インターナショナル堂楽園ホテルのロビーは多くの利用客で溢れていた。

 宴会場で行われたパーティーが終わり参加者たちがロビーに下りてきたからだ。

 タクシーを待っている者、そのままエントランスを出て行く者、カフェ・ラウンジへ吸い込まれていく数名のグループなど、パーティーの参加者たちはそれぞれの思いのままに行動している。

 フロントアテンダントとコンシェルジュ、ベルボーイがロビーの状況を見守りながら、何かを依頼されてもすぐに対応できる態勢をとっていた。

 エントランスを出て行く男性と入れ替わるようにロビー入って来た男性に気がついた清水恭子(シミズキョウコ)が、

「辻井先生、おかえりなさいませ」と頭を下げた。

「おう、清水君。いつもありがとう」

 辻井元高(ツジイモトタカ)は右手を軽く挙げて、

「今日も上に行ってくるよ」と人差し指で天井を指した。

「ごゆっくりお過ごし下さいませ」

 清水はエレベーターへ向かう辻井を見送った。


 辻井は、グレーのスーツ姿で、ネクタイを外している。

 恰幅が良くて、ふっくらした顔立ち、髪はオールバック、やや目と眉が垂れ気味で、愛嬌が良い紳士という感じの男性で、今年の夏で58歳になる。

 辻井は、1987年の参議院大阪府補欠選挙で初当選を果たし、当時の自優守護党の幹事長の田辺晋一郎(タナベシンイチロウ)が代表を務める聖和会に入会した。

 1992年の夏の参議院議員通常選挙で2度目の当選を果たし、

 1994年9月から参議院沖縄・北方問題に関する特別委員会の委員長を務め、

 今年の1月、通商産業政務次官に任命され、今日に至っている。

 現在、通常国会真っ只中だが、辻井は、週末は大阪に戻ることが多く、その度にこのホテルを利用するVIPで、つい先ほど大阪に戻って来たばかりである。

 

 辻井は最上階でエレベーターを降りた。

「あらっ、先生。今は国会で忙しいのに、わざわざウチに逢いに来てくださって、ほんと嬉しいわ」

 日本料理の女将の沢口多恵子(サワグチタエコ)が辻井を出迎えた。

「アホぬかせ、わしは極上の肉に逢いに来たんじゃ。誰がおまえなんぞに」

 辻井は満面の笑みで沢口を罵倒する。

「そやから、そんな肉の塊みたいになっとんやろ。どうせ食べるんやったら、肉やのうて、ウチにしとき」

 沢口も怯むことなく辻井の腹周りを凝視して笑顔で反撃する。

「ハハハ、毎度のことやけど、女将には勝てまへんな」

 この二人のやり取りを覗っていたバーのマネージャー薦田健二(コモダケンジ)が、「先生、参りましょう」と声を掛けて、この場を収めた。


「先生、お疲れさまです」

 鉄板焼きのシェフの窪田誠司(クボタセイジ)が辻井を出迎えた。

「今日もよろしく頼むよ」

 辻井は窪田が用意した席に腰掛けた。

 そのタイミングでバーテンダーの滝澤和人(タキザワカズト)がバランタイン30年を持って来て、

「辻井先生、どうぞごゆっくり」と頭を下げた。

 辻井はバレンタイン30年しか飲まない。

 辻井はは常にメインバーでバランタイン30年をキープしていて、辻井がバー以外の店舗をする時は、必ずメインバーから辻井のバレンタイン30年が届けられていた。

「おお、滝澤君。いつもありがとう」

 辻井はささいな事でも必ずお礼の言葉を送る。これが国会議員なのだろう。

 このホテルの従業員たちは辻井のことを信頼して、信じきっていたのだ。


 辻井が、窪田が絶妙の焼き加減で仕上げた米沢牛に舌鼓を打っていた。

 このA5ランクのサーロインは、きめ細やかな霜降りが口の中で溶け出し、独特の食感と旨みが織り成す至高の味わいで人々を魅了している。

 大の黒毛和牛好きの辻井とって、米沢牛はまさにファビュラスと絶賛できる最高級の黒毛和牛なのだ。

 日本料理の主任の大谷正彦が少し離れた壁の前から辻井の様子を覗っていた。

 黒の上下、白のワイシャツに黒の蝶ネクタイ、さらに黒の革靴というホテルの飲食店のスタッフにありがちなユニフォーム姿で、髪はオールバックで整えられている。

 辻井は米沢牛を一切れ食べて、バランタイン30年を一口飲み、窪田と話している。

 会話の内容は、辻井が国政に関わっていることからか、政治や議会の話が多い。

 今日の午後0時2分に開会した参議院の議会は、17の法案が審議され全会一致をもって可決された。そのほとんどが一部変更という法案で、賛否のバトルを繰り広げることも無く、淡々と事が運び、議会は開会からわずか34分で終了し散会となった。

 散会後、辻井は参議院議員会館の事務室に戻り、来週の予定と必要な書類などを確認してから議員宿舎に移動して、手荷物だけを持って東京を出発した。

 その後は、大阪まで新幹線のグリーン車両でゆったりと過ごしただけである。

「34分ですか?」

 窪田は議会が34分で散会したことを聞いて驚き、少し離れた場所でこの会話を聞いていた大谷は「こんなん税金泥棒やろ」と心の中で呟いた。

「今日はたまたまやって。いつもこんなんやったら国会議員なんかいらんやろ」

 辻井がそういうと、

 窪田が「ほんとにそうですね」と頷いた。



(4)


 一方、大阪から約400キロ離れた東京では、聖和会の事務所で密談が行われていた。

 国会議事堂がある永田町の北側を走る青山通りを横切った先にある金崎ビルの中に聖和会の事務所があり、代表を務める八塚治(ヤツヅカオサム)、自優守護党総務会長を務める白川政次郎(シラカワマサジロウ)、小森光喜(コモリミツヨシ)、大泉純三(オオイズミジュンゾウ)、藤原順平(フジワラジュンペイ)、そして、田辺晋二(タナベシンジ)の6人が集まっていた。

 名目上、表の顔は八塚だが、聖和会の実権はすでに小森と大泉が握っていた。

 特に若かりしの大泉は聖和会の創始者である保志田武夫(ホシダタケオ)の秘書をしていて、この頃からすでに大物政治家になると期待されていた。

 この時期に大泉と出会っていた白川も、下積み時代の苦労の繰り返しでも秘書として役目を全うしている大泉の姿に心を打たれていた。


 今年(1996年)第一次阪本龍三(サカモトリュウゾウ)内閣が発足する際に、大泉と小森が奮闘し、聖和会から藤原を通商産業大臣に起用させて、さらに辻井元高を通商産業政務次官に任命させた。

 辻井を政務次官に任命させた理由は、大阪府議会の議長を務めていた辻井を国政に引き込んだのが田辺晋一郎だったことだけではなく、辻井が丸十字の元社員だったことも大きな理由だった。

 丸十字の薬害エイズ事件は甚大な人権被害をもたらした。

 辻井が丸十字を退職して大阪府議会議員になった後で薬害エイズ事件が発生しており、辻井はこの事件とは無関係であるが、厚生省からの天下りや隠蔽の実態など、丸十字の内情をよく知っている国会議員は、辻井ただ1人だったからだ。

 まだこの裁判が続いている中で、聖和会が政局と派閥争いに辻井を利用していた。

 その見返りとして辻井に政務次官のポストを与えたのだ。


 この6人の中で田辺晋二がもっとも若い。まだ40代である。

 聖和会の創始者の保志田から聖和会を引き継いだ田辺晋一郎は田辺晋二の父親で、田辺晋二は次男である。

 1991年5月、父の他界によって父の地盤を引き継ぐことになった田辺晋二は、1993年の衆議院議員総選挙に立候補して初当選を果たした。

 聖和会はかねてから田辺晋一郎の総理総裁就任を悲願として掲げていた。

 自優守護党内でも「次ぎの総理総裁は田辺晋一郎だ!!!」と支持する者も多くいた。

 だが、その目前、田辺晋一郎は他界し、聖和会の悲願は叶わなかった。

 聖和会の中で最も強く田辺晋一郎を推していた白川が田辺晋二に語りかけた。

「田辺君の父は総理総裁に相応しい政治家だった。だが、悲しいことに総理総裁に手が届く直前に悲劇が起こってしまった。だが、これはもう取り戻せないんだ。だから、田辺君は父のためにも絶対に総理総裁にならなけばならないんだ」

 田辺晋二は父の無念を噛みしめるように白川の話を聞いている。

「年齢的にも僕が田辺晋二総理総裁就任をこの目で確かめることは叶わないかも知れない。だが、僕はね、田辺君を総理総裁に押し上げるためには、何だってやる覚悟を持っている。これは、今ここにいるみんなも同じだ。聖和会の未来が田辺君に託されていることを肝に銘じて、政治家として自己を磨き続けて、将来、立派な総理総裁になってくれたまえ」

 白川が強い口調で諭すと、田辺晋二は、

「身命を賭して精進いたします。これからもご指導のほど宜しくお願い致します」

 と力強く答えて、深々と頭を下げた。

 白川は田辺の決意を感じ取り、「よし、これでいい」と心の中で頷いた。

「さて、今夜の本題に入ろう」

 白川が話題を変えると、メンバー全員の視線が白川に集まった。


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